言葉の殺人者
久しぶりのアップになりました。
サロン移転のための引っ越しや何かでバタバタと
インターネットの環境もおっとり準備の私はまだうまくいっておりません。
さて、今日は少しおどろおどろしいテーマとしましたが、
「言葉の暴力」により心が折れたり、病のようになっておられる方についてのお話しです。
私事ではありますが、同じように幼い頃からの環境による「負」の波動を出す考え癖を植え付けてしまった同じような人もいるんだよということで、書いてみたいと思います。
私は生徒指導をするような厳格な父と1歳から実際ペン書道をしていましたので物心ついた時から母も先生であり、両親には自分の意見などは言っても怒られたり、折檻される「従う」ことを幼い頃から徹底的に心と頭に植え付けて育ちました。
(この環境で育った心や考え方を変えるため、心の勉強をしたり、クリーニングをしたりと、ここ10年は宇宙神理の法則と交えて学び、実践してきたと言っていいです)
やりたくないこともやれと言われたら空気を見て、とことん我慢してやる。
これ以上できないと思っても監視されているので、我慢してやる。
小さい頃から我慢という我慢をすることに慣らされていきました。
親の満足した結果でなければ(親はあなたがこうしたかったんでしょと上手く言葉でかわす)、
親が一生けん命したと認めてくれなければ(私は100%でなく120%することを覚えてしまい、自分を追いつめて知らない間に心の病気になっていても、親は認められる結果のみ追いかけます)、
私が正しいと思ってしても親の意見と合わなければ、
と総括して親にしてみれば気に食わないことがある場合には
レストランで家族は食べているのに私だけ駐車場の車の中で待ったり、
山に捨てられたり、蔵に閉じ込められたり、怖い思いもしました。
そこまでいかなくても、正座で何時間も座らされて両頬をたたかれていました。
だから、つらいとかしんどいという弱音を吐くことは許されないと思っていましたし、弱音など吐けばより折檻させるだけで、ますますつらくなることもわかっていたので、本当に我慢、我慢という心を砕いて生活することを覚えました。
弱音が吐けないので、体の不調も言えず、
風邪を我慢していたら肺炎も通り越して命に係わる肺水腫となり、
足がブチブチブチといって痛いのを2か月我慢しても治らないので怖くなり病院に行くと膝の皿が完全に割れていたり、
勿体ない根性をたたきこまれて、勿体ないと食べて食中毒になったりと、
幼い時からの環境による我慢の習慣は私の健康も損なくことも多くありました。
小学校の時には、部落(言葉的には言ってはいけないのかもしれませんが)の方が70%を占める学校で、部落の子たちがいじめをしている子を要らない正義感で私が助けようとしたために私がいじめに合うことになり・・・しかし、小学校の先生は部落の親が怖いので、おとなしい私を言いくるめればいいと問題があると母親をしょっちゅう呼びだしていました。
結局は母も私視点で見るといじめに加担していました。これで、私の両親は教師でしたから、子ども心も複雑というか、人はすべて敵としか思えなくなっていました。
なんだか暗い話が長くなってきました。すみません><
こういうような人間関係の中で死にたいと思っていたのは
たたかれたからでもなく、山に捨てられたからでもありません。
心を砕くような言葉の中でも、
「あんたを生んでよかったんかな?」
「人としてやり直しなさい」(この言葉は最近)
売り言葉に買い言葉に出てきた言葉でなく、
はがきで書いてきたり、ポツリと言われたりと
より心に深く響く形で言葉を発せられたものでした。
さすがに「人としてやり直しなさい」はこたえました。
自分の小さい時からの考え方や自分を不幸にする思考習慣改善にここ10年以上一生けん命取り組み、
お仕事もさせていただくようにもなり、ある意味やり直しが少しできてきているなと思っていたところですので、時間を含め
私という人、つまり存在も否定する言葉は、殺された気分になってしまいました。
努力している人に、「努力しなさい」というのと同じというより、
それよりその存在の否定ですからそれ以上に聞く者にすれば心を刺す言葉になっています。
こういう言葉が出てくるのは、
こういう思いをもってくるから出てくる。
ここでいうと「否定」という思いがあるから出てくるのです。
自虐的になったり、自分はダメだと言ってみたり、自分を否定する人には
この「否定」の考え方が身についているので、人にまでその考え癖の尺度で言葉を発してしまいます。
これらの「否定」は完全に「負」の波動を発生する考え癖なので、
当人はぐちぐちと自分に言い訳をしたり、つらいつらいと言ってみたところで、
なかなか状況からは脱っすることはできません。
逆に、宇宙の法則では同じ波長の人は集まりますので、
「否定」癖のある人が集まることになりますので、
傷のなめ合いをしているだけでは、
お互いに相乗効果ならぬ、相乗に足を引っ張りながら不幸に進んでいることを喜んでしてしまっているのです。
これは幾分厳しい言葉かもしれませんが
「否定」も含め「負」の考えが多すぎると、あなたに係わる人にもあなたが無意識のうちに「負」の波動を送ってしまっていることになります。
よかれと思って言う言葉が
相手の心を殺すことになる場合も多いのです。
同じ応援ならば
「あなたならできる! 何かあればアドバイスはするね」というのと
「人としてやり直しなさい」とでは
心に伝わるものが全然違います。
それこそ、神様が本人が「気づく」まで状況を作ってくれます。
いくら言ってもわかってくれないと嘆くのは、
わかってくれると教えてあげないとと思うエゴから出てきるからです。
本人がわかろうとするまで、アドバイスも有難迷惑にしかならないのです。
ましてや、神様が気づいて欲しいと思っていることと違うことを誘導するアドバイスならば、それこそ余計でしかありません。
子供さんの相談を受けることもよくありますが、
挨拶やマナー、人に迷惑をかけない、人の気持ちを考えるなど、人としての在り方については折々でお伝えになればいいでしょう。
しかし、「負」の考え癖でもって、「負」の考え方を教えようとするのであれば、
それこそ将来のお子様に多大な影響を与え、苦しむ習慣を与えてしまうことになりますから、その一言が心の殺人につながることになるということも覚えていただけばと思います。
家族だけでなく、職場でも、友人関係でも、
弱いふりをして、優しいふりをして、きつい人の心を殺す言葉を発する人はあると思います。
そういう点で悩んでいる方には、「負」の考え癖しかできない人なんだなと心に深く言葉を入れる必要はありませんから。(自分が本当に変えた方がいいなと思ったことだけ変えるだけでいいです)
両親との関係で悩んでおられる方、あなただけではありません。
ひとりではないですからね! 完全に気持ちがわかるわけではないかもしれません。
でも、ここにいつでもあなたの声を聞く私のような人もいると思ってもらえればと。
寧楽感恩