はひふへほっ。 笑う門には福来たる

~視えない世界にアプローチ、”愛”と”調和”の宇宙の法則で、地に足つけてみんなで幸せ❤~

我慢ポイントがわからない人へ(3)

毎年この時期になると花粉症になります。
(韓国に出張に出ると治ります、この地域は本当に花粉がすごい)
花粉症対策をしていて、「なんかおかしいな?」と思った時には、もう遅し。
ずっとぐずぐすと微熱風邪。
自分は無理していると思っていないのに・・・・
無理をしてしまっていることのお知らせを貰っております。ちょっと長いですが、今日もお付き合いください❤


さてさて、そろそろブログだなと、
我慢ポイントがわからないシリーズの第3回目の大きなテーマ(これは先月に決めていた)をどの視点で書こうかなと思っていたところ、
やはりまたやってきました、神様からのお知らせ。
は~~とため息が出てしまう母とのやり取り。
これを書けってことね~~~ということで、
今日もまずは、質問から行ってみます。


我慢ポイントがわからない方、
我慢してないと思っている方、
”自愛”できていると思っている方(→母もこのタイプ)に
まずは考えていただきたいと思います。


Q.私のちょっと知り合い(知人の紹介で知り合った方で、年賀状程度のおつきあい、1・2年に一度お会いできるか)に対して、「1週間もしたらもう山椒の実もダメになるから、好きって聞いて、ここ3年ほど毎年送っているからもう送ってあげなあかんと思うねんけど、送ったらいいかな?電話して聞いてあげる?」とたずねてきました。
   この言葉を聞いて、”腑に落ちない”と思ってしまいました。
   さて、なぜでしょう?
  ※うちの家には山椒の木があるので、この時期になると実の収穫ができます。
  ※相手の方は私がチャネリングやリーディングができるのをご存じなので、電話も善し悪しなのです。

 


答えに至る前のヒントです。
これが、今日”我慢ポイントがわからない理由”としてご紹介したい内容にもかぶります。

 


山椒の実の旬になり、私のちょっとした知り合いを思い出して、送ろうとしてくれる母の思いやりには、
当然感謝の気持ちを持っています★
その気持ちは重々にわかっていても、心が進まなくなる理由でもあります。


このQを聞いて、まずは
①何が”腑に落ちないの?”と思う
②同感、”腑に落ちない”と思う
大きく2つにわかれるのではないかと思います。


①を選ぶと、どうして”腑に落ちない”ことがあるの?と思うでしょう。
②を選んだ方は、それなりに理由が思い浮かんでおられると思います。

 

 

昔の私ならばです。
わが家で消費できない量の山椒なので、おすそ分けの心が生まれるのもわかります。
だから①にように、何の疑問も持たず、「それならよろしく」と頼んだと思います。
気を遣ってもらってありがとうと思って頼んだと思います。


が、腑に落ちなかった・・・・今の私は。
理由を探せば、いろいろあがると思います。
でも、”自愛”という視点から見ると、2つの点がひっかかりました。
1、「送ってあげないといけない」「電話して聞いてあげる?」
   「送りたい」というwantではなくって、「送らなければならない」と”しなければならない”になっている気持ち。
電話して聞くということは、本当に「したい」というのではないと思うのです。
本当に自分が「したい」と思ったら、勝手に送る、自分の心を勝手に送る。
相手がその後、その品をどうしようが、それも相手の心に任せてしまう。
時には、確認を取る方がいい場合もあるでしょう。
しかし、ここで言いたいのは、「しなければならない」と思っているということ の問題。


確認を取って、相手が「いらない」と言えば、「しなければならない」”仕事”が一つ減るという捉え方が問題です。

 

  沢山の山椒の実が余ることに対して、「勿体ないからなんとかしなければならない」と気持ちも合い混じっているのもわかります。
でも、「・・・・しなければならない」とやることはどうなのでしょう? しかも、しなくても、第三者に迷惑がかかることもありません。
「送りたい」と純粋に思えないまま、自分に「送らせる」という”仕事”を一つ増やす のはどうなんでしょう?

  母は毎日時間がない、しんどいと言っている人です。
だから、いくら相手によかれと思っても、自分から「しなければならない」と”仕事”をより増やしてしんどいではどうなの?と思うのです。
反”自愛”での「しなければならない」では、やはり自分がどんどん疲れて来てしまいますので、
反”自愛”からの思いやりは、やはり疲れると思うのです。

  更に悲しいことは、もしですよ、相手の本心として”要らない”と思っていたと知ることがあったなら、
「しなければならない」と思ってやったことだったので、「やってあげたのに・・・」という不満につながる可能性もあるのです。
でも、母のようなタイプ。「やってあげたのに・・・」と思うことも思ってはいけない・悪い・自分のせいなどと思うと、
「しなければならない」で1度目の反”自愛”、
「やってあげたと思ってはいけない」という2度目の反”自愛”で、
反”自愛”でがんじがらめに自分をしてします。そして、自分のエネルギーが失われていきます。
(母には、上に記したことを言いました。が、伝わったかどうか・・・)
  

2、「ここ3年毎年送っているから」
  ここに大いにひっかかってください^^ これが今日の我慢ポイントがわからない理由として説明したいものです。
  
  1.リンクしますが、「毎年送っているから、今年も送りたい!」というwant が心の起点なら何も問題がなく、”慈愛”です。
でも、今回言いたいのは、「毎年しているから、今年もしなければならない」という点です。

 

  母はずっと幼き頃よりやってきました。時代も今よりもっと先生という肩書が大きい時代だったと思います。
すると、お歳暮中元、入賞入選をしたらお礼金、などなど、貧乏学生をしていた頃から年を経るごとに負担も大きくなり、
お金の切れ目が・・・というような世界、毎年の時期になれば、慣例として「渡す」というのが普通という思考の習慣を持っています。
そういう母を見ているからこそ、出てきた心のひっかかりだと思います。
そういう母からもらった世界観で苦しんだからからこそ、今は言える”気づき”です。

 

 

  慣例としていると、その時期になれば「しなければならない」のです。
  慣例としていると、自分が望まなくても「しなければならない」のです。
  つまり、「これって幸せ?」と思うのです。

 

こういうように考え癖がある人ほど、「・・・・したのに」と自分の期待と違う方向にものごとが進むと思い始めます。

 

 

慣例ということでも、その時期になれば、「本当にお礼をしたい!!」と思って自分の懐が痛くない程度で無理なくする。
慣例ということでも、自分の心に合致して「本当にお礼をしたい!!」と思って自分の懐が痛くない程度で無理なくする。

 

こんな風に自分の心に寄り添い、自分の心と懐の豊かさサイズに応じたものを、真心でお渡しする。そういう”愛”の循環こそが、宇宙神理として適合するもので、双方が”豊か”になる循環です。

 

そう思えないならば、慣例であっても、無理にすることはないと私は思っています。
その慣例ができないと外されるような世界観を持っている人の集まりであれば、
自分とは合わないのですから、がんばったとしても時間の問題でしょう。さっさとその世界観を持っている人からは離れて、
”自愛”と”慈愛”の世界観を持っている人たちに囲まれる方が幸せだと思います。

 

  

そう、恒例・慣例・習慣になっているから・・・・これが我慢ポイントをわからなくしている理由です。

恒例・慣例・習慣になっているから・・・・「やらなければ」と思っていることさえも自覚しないようになっているのです。
恒例・慣例・習慣になっているから・・・・「みんながするから」と思っているから自分の心に寄り添えなくなっているのです。

 


言葉を変えると、
自分にとっての”普通”
これが我慢ポイントをわからなくしている理由です。

 

 

自分にとっての”普通”って何でしょう?

 

 

上の例に挙げたのは、時々起るようなタイプです。
わかりやすいというとわかりやすいですよね、どかんと心に引っかかってきますから。
でも、この”普通”は、毎日の中で起こっています。
何か起こった時だけ、トラブルが起こった時だけ、「私我慢しているのかな?」と疑問に持つのではないのです。

 


私の経験からでお話します。
霊的(スピリチュアル)エネルギーが切れてしまった時のお話です。
体力エネルギーや精神的エネルギーは、睡眠やちょっとした気分転換で充電できます。
けれども、霊的(スピリチュアル)エネルギーが切れてしまった時は、だるさがひどく、本当に自分が”空”になったような感じ、
その経験から、この”普通”の大切さと怖さに気がつきました。
”自愛”って何だとより自愛の方法を考えるきっかけにもなりました。


ある日突然、朝起きると、もう起き上がれないのです。
私は、まず朝起きると、歯を磨こうとするのですが、立てない・・・
そして私の頭(自分の中の”姑”)はもがくのです。
「歯を磨かないと、あかん!」と。
歯を磨かないと虫歯になるよ、と脅すんです。
歯を磨かないと臭いよ、と脅すんです。
アカン病にかかっている状態です。


でも、霊的エネルギーがゼロの私は、
この頭の中の”姑”がいろいろと言ってきて、脅してきて、
歯を磨こうとすればするほど、自分が疲弊していきました。
たかが歯を磨くことです。
それが、もうできなかったのです。
当然、服を着替える、そんな霊的エネルギーなんかもっとありませんでした。


「あかん、磨かないとあかんと思ってても、あかんわ」と
頭の”姑”が何を言ってきても、心と体が言っている「あかんわ」を大切にしました。

そして、
「歯を磨かないとあかん」
「服を着替えないとあかん」
「朝ごはんを食べないとあかん」 などなど
朝から「あかん」と思っていたことをすべて「やったらあかん」という『逆方向』に切り替えました。


霊的エネルギーがなくってもう寝ることしかできていない自分に、
心と体がSOSを出しているのだからと、
頭の中で『普通』になっていることをすべて、やめることにしました。
心の声の、「だってやりたくないもん!寝ていたいもん!」をしっかり受け取ったからです。


この頭の中で『普通』になっていることは、
世間体や常識、経験や知識という自分の中の”姑”の価値観から来てきます。
つまり、先ほど紹介した「毎年やっているから・・・」というものも含みます。

この『普通』が『普通』ではないことに、気が付けば、”自愛”がよりしやすくなります。

 


朝起きて、
「服着替えたい?」
「今日は何着たい?」
「今日は仕事に行ける?行きたい?」
「朝ごはん作れる?」と、
今まで朝『普通』にやっていたことを、逐一自分の心に聞くのです。


『普通』というようになったのは、習慣や慣例によって、
自分の頭が『普通』と思い込んでいるものなのです。
頭が思い込んでいるのですから、そこに”自分の心に寄り添う”はありません。
つまり、
自分の心をほっておいて、自動的に、やらせている状態です。


子どもに「今日は何を着たいかな?」と聞かずに、
「これ着ておきなさい」とやっているのと同じ感覚ですね。
それでは、子どもがすねてしまいます・・・・
これを自分にやっていると、自分がすねてしまいます・・・・

すると、
自分をすねさせたりという反”自愛”ですので、
自覚しない間にどんどんと自分の霊的エネルギーがなくなっていく><

 


どかんどかんとトラブルやハプニングが起こっている時は、
自覚があって、自分の気持ちを考えたりしやすい。

でも、この『普通』というのは、
自覚がないので、じわじわと霊的エネルギーを奪い取っていくので、
気づいた時には、「じゃじゃじゃ~~~ん」というくらいに、えらいことになっています。


この「じわじわ」型ほど怖いものはないのです。

 

 

 普通、やっているから

 

 

そのくらい大丈夫だから
(いつもやっているし)⇒でも、全然大丈夫違うから><

 


いつもやっていても
普通できていても
その日、その時、自分が「したくない」「嫌」と思っていることもあるのです。

 


これほどこわい「じわじわ」型の霊的エネルギー消耗法はありません。
じわじわって一番わかりにくいですからね。

 

 

じわじわを予防する方法としては、
”自愛”しかありません。

その中でも、自分に寄り添う”自愛”です。

 


普通やっているからとか、そのくらい大丈夫というのは、頭の中の”姑”の声。
そういう頭の声には黙ってもらって、


自分が自分の愛しいペッとやパートナーに話かけるように、
「したいの?」
「やりたくないの?」
「好き?」
「嫌い?」
と逐一聞いてあげてください。


「やりたくない」とか「嫌い」と言った時には、
無理強いせずに、一旦その自分を受けとめる。(頭の中の”姑”はだまらせる)
そして、「やらない」「嫌う」を選択する。

でも、「やる必要がある」時ってあると思うんです。
そこでも”自愛”です。
「やりたくないんだね。代わりの方法はあるかな?」
「やりたくないんだね。後でならできる?」
「やりたくないんだね。・・・・・」と自分に寄り添って聞いてあげて欲しいのです。
そうしているうちに、「やらないでも済むことになった」や
「後回しにしたら全然できるようになった」という”自愛”からの神業が起こりますから


みんな自分の『普通』の中で生きている。
自分の『普通』を疑うことで、本当の自分が顔を出してきます


                           寧楽感恩

 

 

追記;これもここ最近の母。
骨折をしていてお風呂に入りたくないのに、
入れ入れという父が言うので、断ると父がまた荒れるからと仕方なくお風呂へ。
案の定、またこけてしまって、違う場所をまた骨折。
みなさん、お知らせは身近にあるのです。心の声を守りましょう!
自分の心の声を守るために、あなたを見方するために頭(”姑”でなく”あったかおばあちゃん”)が存在しています。