はひふへほっ。 笑う門には福来たる

~視えない世界にアプローチ、”愛”と”調和”の宇宙の法則で、地に足つけてみんなで幸せ❤~

自愛エネルギーを削ぐ見下し”かわいそう”癖 (後)

今回のブログは、もう2週間ほど毎日PCの前に座っては、
書いては伝わりにくいなとストップし・・・
書いていると、いろいろと関連して長くなってしまって(嫉妬・劣等感・承認欲求・勝敗などの自愛的説明を書いていたのです><)、
するとどんどん長くなってきて、要点の見えない記事になって、「これはあかん!」となりました。でも長くなりました。
で、”今回伝えたいことを短く書く方がいいな~~”と切り替えて書いていきます。

 

 

前回は、
かわいそうと思われて育った、
かわいそうと思われ・思うことで、
自愛と反対の「見下し」の習慣を身につけた「その子」について書きました。
かわいそうという「見下し」の考え方で”自愛”をやろうとしても、
「自分を見下しながら、自分を大切にしているんです」という矛盾に陥って、
”自愛”のアクセルを踏みながら反”自愛”のブレーキも踏んでしまって
結局は、自分のエネルギーを削っていますよというお話をしました。

 

 

今回は、その続き、このかわいそう癖→見下し癖がついていると、
大人になってもその苦しさは形を変えて自分で持ちだしてきますということをお話したいと思います。

特に、
「すごいと思われたい」
「認めてもらいたい」
「褒められたい」
「一目おかれたい」
「評価されたい」
「人に劣りたくない」
「自分の存在価値をわかってもらいたい、示したい」
「愛をもらいたい」
「人から見下されたくない」という意識が強い方、承認欲求が強い方には当てはまるのではないかなと思います。
いい人をやってしまうとか、生真面目や他人軸になりやすい方にも当てはまるかと思います。


前回に引き続いて、大人になっていくその子のお話を少し書きます。
その時に、今回私が伝えたいことの、自愛パワーが削られていく理由、
「いつも自分を●●って、■■態勢」だから。
これを考えてもらいたいと思います。

ヒントは、どんどんと育っていく自分の中の”姑”視点、”姑”的考え方。
”姑”とは、実際の「姑」さんではなく、
世間体や社会の価値観、地位名誉、お金への執着が強かったり、経験からの思い込みが強い、神様の”愛”とはちょっとこの世で作られた概念に偏っている意味の比喩として使っています。

 その子の続きを始めます。

 

 

「かわいそうな子と言われたくない!」
「みんなと同じようにできる子になりたい!」
「ダメな残念な子と見捨てられたくない!」
と、”かわいそうな子”と見下されてはいけないと思い、
自分の身の”安心”を得たいため、
母の価値観で生きることが正しい自分の生きる方向だと信じて生きていくその子。
母の価値観が正しいと思い込んで生きていくその子。


勘のよかったその子は、母の価値観を察するようになり、
母の顔色を伺うことができるようになっていきました。
母から褒められると自分が認めれたと安心し、
母から怒られないでいることは自分の安心になり、
どうすれば母が喜ばせられるのか? 母が満足するのか?を考え、
そればかりを気にするようになって、行動するようになっていきました。


そんな風に母の価値観が基準で生きていく中で、
母が優等生でオール5だったと聞かされると、
また、母に似てお習字が上手だねと聞かされると、
その血だからと「私はできて当然と思われているんだ。できないなんて許されないんだ」と
”できる”ということへの執着が始まりました。
”できない”ということは、その子には死活問題になっていったのです。
そして、母からは「あなたはやればできる子なんだから」と言われると、
なおさら「できて当然なのに! どうしてできないの?!」と怒られている気持ちになり、
「あなたを思っているのだから」いう心の言葉が胸に突き刺さり、
どんどんど心の負担になり、母の自分への応援が純粋な応援に聞こえなくなっていきました。


懸命にやっていてても数字や表彰に結びつかない時もあります。
そんな時には、
「もっとがんばれるのにやらない子!」
「言ったようにちゃんとやれない子!」
「どれだけやっても結果に結びつかないかわいそうな子!」
そんな風に、怒られ、切り捨てられるようにもなっていきました。
当然、母からの目に見えない見下しが続いているのです。


そして、
「本当はできる子なんだから、やればできる!」と
”愛しているから・・・言うの”と見えない脅しが続けられていきました。


母が言った「やればできる子!」を証明でき、
母に怒られるということはなく、満足してもらえると”安心”をすることを覚えました。
その子は、「できる自分」でいることがこの世で生きることで大切なのだと思っていきました。

 


その子は、人の5倍、努力できる子でした。
その子は、とてもとても忍耐強い子でした。
だから、結果がでるところまで必死に頑張ることができました。
時に思う結果にならないこともありました。
でも、「それだけやったのだから、結果ができて当然」というところまでより頑張れたので、
必死の努力に応じた結果がついてくるようになりました。
学校生活だけでなく、社会出ても、同じように引き継いでいきました。
子供の頃からの母の価値観をひきずり、
「見下されないように」という思いもひきずっていきました。

 

 

愛されたい、怒られたくないので、「できる自分」であり続けたい!


「できて当然」の自分。
できない自分は、ダメな自分。
「できない」なんて自分が認めない!
自分で自分を裁くようになる一方で、


自分を見下して裁くだけでなく、他人にも同じ価値観で裁き出します。
努力が足りなくでできない人は、ダメな人。
「誰だって私くらい努力をすれば、できるようになるのに、甘えるな!」と
できない他人を見下し、
努力をしない人を見下し、
自分も人もより見下し始めました。
できない人は”かわいそう”と見下すのも問題ですが、
できない人はかわいそうとも思わず、できない人を切り捨てる・・・
そんな風に厳しい目に変わっていったのです。
そして、「私はできるんだ!」と思うことで優越感と安心安堵を感じる・・・・
そんな風に自分を守り、自分の価値を見出していこうとしたのです。

 


そして、他人を意識し始めると、
当時に、その子は目標も高くなってきました。
その子は、自分よりもできる人を目標にするようになり、
「できる人はすごい人、すごい人になりたい!」と
ますます上を目指すようになります。
すると、もっと愛されて、もっと認められると思ったのです。
人からすごいと言われることは、また「わたしスゴイのよ!」と快感でもありました。


ここまでくると、母に愛されたいや認められたいという気持ちを発端にして、
愛されたい、認められたい対象が、見る世界が広がれば広がるだけ増えていきました。

 


そのためには、「すごい人にならければ!」・・・・
言い換えれば、今の私では足らないので、もっともっともっと頑張れなければ・・・
頑張って、身につけて、「もっとすごい人にならなければ・・・・」と。

 

 

すごい自分探しがどんどんと加速していったのでした。
山登り人生がどんどん加速していったのでした。


そうです、その子の神様はそんな状態を放置しておくわけがなかったのでした。

 

 

 

 

その子の話はここで一旦終わりです。
その子とタイプが全然違う方もあると思います。
でも、自愛をしているつもりだけれど、すぐに疲れるし体調が変わらないという方には、
自愛パワーが削られていく理由、
「いつも自分を●●って、■■態勢」だからをちょっと知っておいて欲しいと思います。

 


さてさて、どう感じましたか?
学校の点数やビジネスでの数字・結果など”姑”視点満載でしたね。
発端が、その子の場合には、母でしたが、
父の場合、両親、先生や身近にいた大人といった
”姑”的考えを持った人たちが必ずといっていいほど影響を及ぼして、その子に共感できた方もあったと思います。

 


そもそもの発端は、前回書いたような
母が悲しむから母からかわいそうと思われたくないという”かわいそう”癖でしたが、
それが社会に出ていく過程の中で、かわいそうと見下す・見下される対象が変わっていったという流れがありました。

最初は、ただ、かわいそうと思われたくない根本には、
母を喜ばせたい、喜んでくれたら愛されている・認めてもらえていると思いたいという
「安心が欲しい!」気持ちが奥底に隠れています。

それが、大人になるにつれて、
かわいそうと思われたくない
→できる子(できると思われる子)になりたい
→すごい子になりたい
と、変化していきました。


でも、この変化には落とし穴があって、
この変化は、”本当の自分”の変化とは言えず、
この変化は、”姑”視点になり他人軸によって変化を自分に強いた結果起こった変化なのです。
問題は、ヒントにも書きましたように、
「いつの間にか、自分でない”姑”を生きている」ということです。
もっと言うと、
「いつの間にか、自分でない他人軸で生きている」ということです。


少し砕いて心の動きを見ていくと
1.やりたい!・・できるが増える喜び・やりたい好奇心  
      ↓

 
2.できて嬉しい!・・褒められるのも嬉しい
      ↓ 勝ちへのこだわり⇒もっと努力!⇒努力してできた私はすごいのよ!
      ↓ 見下し癖があるので、
      ↓ ”できない自分は嫌い・怖い””劣らずに優っていたい!”

3.できて優越感!快感!・・①もっとスゴイ自分を求めて!・・もっと優越感が欲しい
              ②劣等感は嫌!・・・かわいそうな自分や劣った自分は嫌
      ↓

4.ずっと勝っていたい!優越感を味わいたい!・・いつでも自分を●●って、■■態勢

 こんな流れになると思います。

 

1.→4.になるにつれ、どんどんと”姑”の価値観・考え方が強くなっています。
1.→4.になるにつれ、どんどんと他人軸になっています。


1.の時点では、”本当の自分”のwantという「したい!」という心だったのに、
2.の時点では、褒められるという他人からの受け身が入り、他人の心を見出して、自分の心をよそ見するようになりました。
すると当時に、”姑”視点がどんどんと入ってくるようになり、
”姑”がいつの間にか”本当の自分”を押しのけて、
”本当の自分”のwantという声よりも、
「もっとできるように」「負けたくない、もっと勝ちたい!」という”姑”の声が優先されるようになっていきます。
それが、3.4への変化です。


褒められて優越感を持つ、
自分は人よりできると優越感を持つ、
こんな優越感は、ある意味中毒性のある”快感”です。
でも、違うんです。

 

「勝って気持ちいい~~~~~!!!」というのは、
多くの場合、人を見下して、
勝って優越感
勝って安心(自分の存在価値があると念押し)
勝って認められる
っていう”姑”が認められたいのです。
勝って気持ちいいのは、”本当の自分”でなくって、”姑”が大部分です。

 


これは、”本当の自分”の喜びではなく、”姑”の喜びなのです
できる・優る・勝つを目的とするのは”姑”なのです。


自分で自分ができるまで・優るまで・勝つまでやらせるという”姑”がいるのです。


できるまで・優るまで・勝つまで・・・
こんな風にいつも、あなたの頭の中の”姑”があなたを見張っているのです。
負けないようにと見張っているのです。
やらせようと見張っているのです。
1.の「したい!」というwantから始まるのであれば、
自分で自分ができるまで・優るまで・勝つまで「しっかりやれ!」なんて自分を見張ることはしません。無理を強いることもしません。
ただ、勝ち負けや優越感にこだわらす、楽しんでやりたいからやるという”本当の自分”だけが存在します(で、結果、やっている間にできるようになっている)

 


そして、
できるまで・優るまで・勝つまで・・・を目的とした、
つまり「もっと上を!もっと上を!」をと向上を強要する”姑”の考え方が、
いつも上を目指せという”姑”の考え方が、
更に自分を追いこむのです。いくらやっても”姑”からは、「上を見よ」と際限なく求められるのですから、追い込まれて当然です。

どんな気持ちに追い込まれるか?
できないといけないという焦り、
できない自分をさらけ出すのは怖い、
できない自分を認めるのが怖い、などという
できない自分隠しを始めますから、
できない自分の能力隠しを始めますから、
悪さをしてしまった人がいつバレルかと心臓バクバクしているかのように
四六時中、気を張って、絶えず恐れて緊張してと、安心とはかけ離れた状態になっています。

そう、
いつもピリピリして、
いつも緊張して、
いつもカリカリして、
ヒヤヒヤ・ハラハラ・ドキドキ・・・・

で、人のことも同じように見張る。


自分の頭の中の”姑”がいつも、”本当の自分”追いこんでいる。
それだけでも反”自愛”なのですが、

できるまで! 
優るるまで!
勝つまで!
とすごい自分と思われたい・思いたいために、優越感を得たいために
いつも誰かと比較をしています。

その誰かというのは
わかりやすく「他人」ということもあります。
しかし、
わかりにくいのは
自分の頭の中の”姑”。

自分の頭の中の”姑”が、”本当の自分”をいつも比較して、
”本当の自分”の粗探し・できない探しをして、
責めて、罰っそうとしていつも身構えているいるということになります。


自分の頭の中の”姑”と”本当の自分”は、自分の中に両方とも存在するので、
一般的に言えば、
自分で自分を罰っそうといつも見張っているのです。
自分で自分にしっかり勝てといつも見張っているのです。
ということになります。


優れ!勝て!と、
「しっかり!」
「ちゃんと!」
「できるまで!」
「手を抜くな!」
「もっと!!」
「まだまだ!」
「それではダメ!
「何をしているの!」
「・・・まで許さない!」
「できる人なんだから頑張れ!」 (心が1.の状態の人、自愛できている人なら純粋な応援になります。だから見張られている状態ではないのでOK
自分で自分をいつも土俵の中で戦わせている状態になっているのです。
これって、もう自分で自分を追い詰めるだけでなく緊張させて、
もう自分を脅していると言えます
これで、いつ心(”本当の自分”)がやすまるのでしょうか?

 


いつも戦っている心の状態では、
それは疲れるはずなんです。
それで、”自愛”してますって言っても、
いつも土俵にいて戦っている状態なのででエネルギーがどんどん減っているので、
自愛をしてもエネルギー補充が追いつきません。ざる状態です。
これでは、自愛エネルギーはどんどんと削いでしまうことになりますよね。

 


そろそろ声を大にしてお伝えしたかった答えが
なんとなく出てきたのではないでしょうか?

 


「いつも自分を●●って、■■態勢」
       

「いつも自分を見張って、臨戦態勢」

 

 ピリピリ、ピリピリ、神経や気が張りつめた状態で、
自分をいつも「負けたらあかん、勝て!」と見張り、
勝負の土俵にいる状態にしている。
⇒自分をいつも戦わせていて自分を大切にしていない反”自愛”です。

 


1.の時点では自分が「したい!」と純粋に思って楽しんでいたのが、
だんだんと自分の喜びが後回しになり、
母の喜びや誰かの喜びが自分への喜びにすり替わる。
本当の自分の喜びが何なのか?を見失っていくわけです。
で、自分がわからない、何をしたいかわからないという状態にもなるのです。

そんなふうに
”いつのまにか~~~”変わってしまった・・・・

”いつのまにか、土俵に上がって”勝つという快感に依存するように・・・・


見下す癖が
勝って人を見下す癖に変質し、
さらに
人を見下す優越感・勝つ「快感」というの中毒性にはまり・・・

だから、
見栄を張りたくなったり、
自慢したくなったり、
嫉妬したくなったり、
こんな気持ちは優越感の反対の劣等感さえも同時に生むことになります。

 


もう
自分を土俵に上げて、見張って、戦わせなくていいのです。


いつも臨戦態勢で、気を張っている状態なのですから、エネルギーがなくなって疲れてしまう・疲れがとれない・体調不良・いろんな不調となるのも当然なのです。


では、どうしたらいいかというと、
自分の中の”姑”がいつも優等生になるようにと見張ってる、
自分の中の”姑”が安心のためにと先回りして「やりなさい」と自分を見張っている、
そんな感じで何かをしようとし出したら、”姑”が出てきていると自覚すること。
すると、その時点でストップできます。

もし、それが難しいようならば、
心の余裕がなかったり、できるできないが気になったり、人と比べていたり、
緊張していたり、などなど、なんだかピリピリしている心の状態であれば、
それは”本当の自分”からのSOSなので、
「脱・臨戦態勢! 土俵からおりる!」と自分を戦いに向かわせないでください。

 


優越感や嫉妬、見下しは、誰かと比較競争するから出てくるのですから、
勝負自体しない ということなのです。
人との「勝負の世界から出る」ことが唯一の脱出方法と言っていいと思います。

私たちは、小さな頃から社会では比較ばかりされてきました。
しらない間に土俵に上がり、臨戦状態になることに慣れてしまっているところがあります。
勝負のない世界、
ただ自分のしたいことをして、自分で見守る、自分中心の世界。
ただ今を感じて、今を生きること。
そこには、勝負で勝つ快感はありません。
快感という刺激はありません。そこから”自愛”は始まります。

 

 

自分が見張っているから、人から監視・見張られいる(粗探しされている)。
自分が臨戦態勢でひやひやハラハラしているので、人からひやひやハラハラされる現実がくる。
自分が土俵に上がって優越感を求めるので、優越感をひけらかす人が出てくる。
自分が戦っているので、戦っている人が集まってくる。
これ、宇宙の法則です、神様が”自愛”に気づいてほしい故に起こる現象です。

 


すごい人になろうとしないでも
”自愛”として本当の自分の”したい”を追究して深化していれば
人からすごいと思われる何かが形作られてきます。

すごいと言われたい、優越感に浸りたいからノーベル賞を目指す人は誰ひとりいないのです。
”本当の自分”の声に従う勇気こそあれ、そこに戦いや土俵はないのです。
自分をいつも緊張させて脅している状況では、できることさえもできなくしてしまうのです。咲く花も枯らせてしまいます。
       
      

ちょうど今、ちちんぷいぷいという大阪のテレビ番組にでフィギュアスケートでGPファイナルで優勝された紀平梨花選手が出ておられるのですが、
運動神経の良さについて「負けん気が強いんですか?」と質問をされると、
「昔は、できて当然って思っていました。」と答えがありました。
なんと!今書いているテーマではないか!とシンクロ~~★と思う私。
(いつも見ない番組なのに、なんでか見ている・・・つまり神様のお知らせ)
心が耳ダンボになっていきまして。

で、今は??どうなの?どう思っているの?と答えを聞きたく番組を見ていると
「お世話になった方に恩返しをしたいと思っています。」と答えがありました。
”慈愛”です、これは。

また、見張って臨戦態勢をさせる自分を脅かす”姑”、自分を緊張させる”姑”を書いたのですが、ここでもシンクロ、
「緊張にはどう対応していますか?」という質問が。
「緊張するのは無駄だな~~って思います。」とのお答え。
土俵に上らない、自分を臨戦態勢にしていない、「おお!”自愛”だ!」と。


「練習をしたくないときには?」という質問には、
がんばって休みます。」という回答。
「やりなさい」「やらなければ」という”姑”の声に従わないで”本当の自分”の声に従くために、がんばって”休むという表現になるんだなと、またまた“自愛だ~~~!”と頷けてしまいました。

 

 

 

今年も残りわずかとなりました。
なかなかアップの遅いブログですが、
今年も沢山の方に読んでいただけて嬉しい限りです★


土俵でなく、
お花畑でよき年を迎えられますように❤     寧楽感恩

 

 

まとめ;心を怯えさせるほど、自愛エネルギーが減って疲れます><
    勝負しないでなくって、勝負の世界からは脱出を★★★

   自分が自分を臨戦態勢(塩対応)にしているから
   人からも臨戦態勢状態(塩対応)を受ける。
   (宇宙の法則が働いています)