はひふへほっ。 笑う門には福来たる

~視えない世界にアプローチ、”愛”と”調和”の宇宙の法則で、地に足つけてみんなで幸せ❤~

自愛エネルギーを削ぐ見下し”かわいそう”癖 (前)

被害者意識やすね、我慢をやめることで”自愛”の土台が丈夫になってきている!
そんな嬉しい変化がおとずれている方が増えてきたな~と実感し、
自分もその輪の中にあることを嬉しく思っている今日この頃。

その嬉しい変化があるのですが、
なぜか「なんだか心が苦しそう」「なんだか半開きに戻ってる」「喜怒哀楽の喜楽が少ない」、
こんな感じで、”あともうちょっと”感がある。
ご本人も何かちょっとという心で薄々わかりながらでも核心がわからない、
そういう人に少しご自身で振りかえっていただきたいなと思って今日は書きます。

 

 


さっそくエピソードを書きますので、
その後、自分がいつもどの立場の視点でいるのか?を確認していただきたいと思います。

 


その子は、2000グラム程度の未熟児で、そく保育器に。
その子は、うまれつき膝の骨が分離する病気でした。
その子は、生後3か月で親戚のミス(虐待の可能性も大)で太腿の大腿骨複雑骨折で入院3か月。両足に爆弾を抱えました。
その子は、1歳になると保育園に預けられるが、かかりつけの医者に皮肉を言われるほど土日になると高熱発症。
その子の幼い頃の一番大きな記憶は、母親がどんどん見えなくなっていく恐怖と不安。
その子は、幼稚園に行っても前から3番目ほど小さく、やせぽっち。足腰は弱いし、体質も弱い・・・
幼い頃、その子は、ずっとずっと母の心の声を聞いていました。時には、声も聴いていました。

「◯◯ちゃん、かわいそうやね」
「◯◯ちゃん、なんでいつもそうなの」
「◯◯ちゃん、できないね」
「◯◯ちゃん、はやく!いそいで!(ヒステリーを受ける)」
「◯◯ちゃん、あんたがおらへんかったら(よかったのに)」


その子が見るお母さんは、
「私をかわいそうだと思っている」
「私のせいで、お母さんは悲しんでいる」
「私のせいで、お母さんは苦しがっている」
「できない私のせいで、お母さんは喜べない」
そう感じていました。


だから、その子は思うのです。
「私はかわいそうな子なんだ。
 私がかわいそうで、至らない子だからお母さんが悲しがっている。
 お母さんに笑ってほしい!
 お母さんにできる子になって苦労をかけてはいけない!」と。

その子は、お母さんと少しでも繋がりたい、お母さんを喜ばせたいと思って、
その子は、お母さんが喜ぶ姿になるまで、どれだけ苦しくても頑張り出す習慣になっていったのでした。

悲しいかなその子には、
本来子供があるべきはずの「愛されたい」という思いももありませんでした。
お母さんを喜ばせたいという思いばかりで、
自分のせいでお母さんが苦しみ、いつか捨てられるのではないかという不安から、
必死にお母さんについていこうとする思いばかりで、
「愛される」という言葉が辞書にない世界に住んでしまい、
言い方を変えれば”愛”よりも「捨てられない」世界に生まれたようになっている。


自分が意識のないまま「愛される」という言葉のない世界にいた人には
いつか來るのです、「愛」というものが存在する世界があったんだと知る日が。
いつか來るのです、「愛されたい」と思う日が。そして、「愛されるためには努力をしないといけない」と。
いつか來るのです、「愛されている人をうらやましい」と思う日が。そして、「益々愛から遠ざかる”すね”が始まる」と。
それがまた別の苦しみを生んでいく。
その思いは両親に出ずに、パートナーを求めることに出たり、何かに依存する形で出ることもある。
でも、幼い日々にわかるわけがありません・・・・


幼き日、


お母さんが喜びは自分の喜び。


そんな風に
愛されることよりも、母の喜びを選ぶことが自分の喜びと勘違いしてしまった・・・


かわいそうな子とわが子を卑下する母でなく、あなたの子は素晴らしい子だよと証明しなければならないと勘違いしてしまった・・・

 


そうして、その子は、
「かわいそうな子と言われたくない!」
「みんなと同じようにできる子になりたい!」
「ダメな残念な子と見捨てられたくない!」
と、自分の身の”安心”を得たいために
母の心を生きる尺度にする術が自分の生きる方向だと信じて生きていくことになるのです。

 

この「その子」が大人になるにつれての変化編は次回のブログ、後篇で見ていきたいと思います。(という予定でいます)
今日はここまでです。


このお話を読んだ時に、
あなたはどちらの立場で見ていましたか?

 

 

お母さんですか?
その子ですか?
両方ですか?

 


そして、
もしあなたの心の中に「その子」「お母さん」に対して
”かわいそう・・・”という感情が出てこないのであれば、
すでにあなたは”自愛”パワーを削る考え方にはあまりなっていない状態。
他に”自愛”パワーを削る考え方になっている理由があると考えていいと思います。

 


その子のお話を読んで、
「お母さん」「その子」に対してどういう思いが出てきましたか?

 

 

それぞれの人で違う思いがあると思います。
何にも思わない人もいるかもしれません。
自分に似ているなと思う人がいるかもしれません。
十人十色、それが人です。

 


では、その思いについて、この二つの思いに焦点を当てて、
どちらが大きいかを考えてみてください。

 


かわいそう
悲しい


どうですか?
この話では難しいならば、
あなたが今置かれている状況、
あなたの生きてきた時間、
あなた自身に置き換えて、考えてみてください。
あなたは、あなたを かわいそうと思う時が多いですか?
例の「その子」の話をしたのは、あなたの「感じ方・捉え方」をあぶりだすために示したものですから、
もしここで「かわいそう」と全く出てこなかったあなたは、”以下は読まないでいいくらいですからね。

 

 

①かわいそう  悲しい
②かわいそう  悲しい
③かわいそう < 悲しい

 

①.②の人は、「かわいそう」が強すぎです。
その理由とともに、”自愛”との関係を見ていきます。

「かわいそう」と「悲しい」。
見ている視点が違う感情だということです。

 


かわいそう・・・・2人称または3人称
悲しい・・・1人称


悲しいは自分が悲しいですから、1人称。
あくまでも、自分が自分で感じる1人称。
魂と繋がっている”本当の自分”のfeelingという意味での、思い・感じです。


でも、かわいそうは違います。
自分で自分をかわいそうと思うのは、1人称のようで違います。
だから、かわいそうは2人称。3人称としました。
何かその違いがわかりましたか?


そうなんです。
かわいそうの時って、”対等”な立場でのfeelingではないのです。
かわいそうと思う方が、「上」の立場になっていて、
かわいそうと思われる方が、「下」の立場になっている。


かわいそうと思う時には、何か誰かを「見下している」ということになるのです。

だから、
他人をかわいそうと思うと他人を「見下す」ことになるので、反”慈愛”。
自分をかわいそうと思うと自分を「見下す」ことになるので、反”自愛”。


一見、「かわいそう」というような感情は、優しい感情のように見えるのですが、
しかし、厳密に”立場”という視点から分析すると、
いつも「上」「下」があるということになります。”対等”ではないです。


この優しそうに見える感情のその奥にあるからくり。
それは、自分の中の”姑”的考え癖(思い込み)が存在が原因です。
この自分の中の”姑”的思考は、世間一般の概念(神様が反”自愛”とする能力・地位名誉・金銭主義、世間の常識・知識などの思い込み)ですから、
”愛”基準の尺度ではないわけです。
大きくとらえると「できるできない」「あるない」で優劣づけされた尺度が基準になっています。
できる「上」 > できない「下」
ある「上」  > ない「下」


”愛”でなく「上下」でもって人を判断ようになりやすいのが、”姑”的考え方です。
だから、自然と優劣が出てきてしまい、「見下す」という考え方の発生に繋がっています。


かわいそうと思いやすい人は、この”姑”が常時口を出しやすくなっていて、
この自分の中の”姑”的考えを意識しないで、放置しておくと、
すぐに人を「見下す」だけでなく、自分をも「見下す」ことをしてしまいます。
いわば、常時自分にダメ出し、あら捜し、見下そうと、自分の頭の中の”姑”が自分を見張っている・・・・見張っているだけでなく、自分をマウンティングしています。
それでは、疲れてしまいます。⇒だから自愛パワーが削がれてしまいます。

 


「かわいそう」と言われ続けて、自分を「かわいそうな人」と思い込んでしまっただけ。
それは、思い込んでしまっただけなので、あなたにも誰にも罪はありません。


「かわいそう」と思ってしまう人、その子のお母さんも含めて、
人を「見下す」意識は到底ないと思います。
けれど、そう思ってしまう人も、その子のお母さんもそのように「思い込まされてしまった」だけなのです。
ただ、”気づく”ことができたらなら、意識的にやめていけば、それで生活の中での連鎖も止まります。

 

 

 


お母さんから引き継いだ、
誰かから引き継いだ、
「自分を下に見て、かわいそうと思う」という
”姑”の考え方をもとにした視点は自分のためにもうやめてあげましょう!


自分を「下」に見る、
つまり自分を見下す・卑下することがなくなれば、
周囲の人も、あなたを下に見たり、見下すことがなくなってきます。
あなたが、あなたをマウンティングをやめれば、人もあなたをマウンティングすることがおさまってきます。
(思ったことは現実になった宇宙の法則が発動しますので)

 


悲しいことが起こったら、
「悲しかった」だけいいのです。
「かわいそう」と”姑”視点になる必要はないのです!
その自分を下げる”姑”視点、無駄に多いのです。


出来ないことに出合ったら、
「できなかったな」だけでいいのです。
「なんで出来ないの!ダメな子!」と”姑”視点になる必要はないのです!
その自分を下げる”姑”視点、無駄に多いのです。


悔しいことが起こったら、
「精一杯やったね。よくやった。」と愛だけでいいのです。
「悔しい!なんでもっとしっかりやらなかったの!」と”姑”視点になる必要はないのです!その自分を下げる”姑”視点、無駄に多いのです。


羨ましく思ったら、
「私はあの人みたいにしたいんだな」と愛で認めてあげるだけでいいのです。
「羨ましいなんて嫉妬くさい。ハシタナイ。どうせ無理だよ、あなたには」と”姑”視点になる必要はないのです!その自分を下げる”姑”視点、無駄に多いのです。

 

 

 

”自愛”をするという意味でも、
自分が何を感じたか?
それだけで完結していいのです。
自分を自分で「見下す」、そんなことまでしないでいいのです!
追加して考えるならば、「次はどうしたいの?」と自分に問いかけるだけでいいのです。

 

 

悲しいだけでもつらいのに、
自分の中の”姑”がその自分をさらに追い込んで、ますます自分をつらくしていく・・・


自分まで母親視点(”姑”的考えの視点)になって、
自分を責め始めたり、見下したりするのは、自分へのパワーハラスメントですから!!!


”自愛”をいくらしても、このように自分で無意識にパワーを削いでいることがあるのです。
例えば、自己憐憫(わたしはキャンディーキャンディー病と称しています)もその一つですからね。

 


かわいそうな人はいないのです! 
ただ必要な経験をしているだけ。
そして、かわいそうと見下して心配しないでも、
自分には、ちゃんと死ぬまで生きる力がちゃんと宿っているのです❤
(自分以外の人にも、同じようにちゃんと力が宿っているので、「信じてあげる★」それだけでいいのです)

 

 

●今日のお話しを少しまとめると


あなたは「悲しい」と思うだけでいい。
お母さん的立場で”姑”的考え方になって「かわいそう」まで思う必要はないのです。


自分の中の”姑”が、自分を「見下し」しているだけなのですから・・・・
もういいでしょう、自分で「見下し」プレーをするのは★
自分で自分を見下さない❤ 自分に失礼です。

 


対誰かに対しても同じこと。子供や体の調子が悪い方にも同じこと。
怪我をした人を見た時には
”見下ろす反慈愛”視点で、「かわいそう」「大丈夫や(上から目線で)」よりも、
”自分と対等な貴い存在として慈愛視点(共感・同じ情という同情)”で、「痛そう」「大丈夫(安心視点)」。
人に「かわいそう」と言われたら、
「かわいそうじゃないもん、痛いけど><」と思っていたらいいのです。


できないことがあっても、
どんな自分であっても、
「かわいそう」なあなたはどこにも存在しません。

 

 

”自分を見下しながら、自分を大切にしているんです。”
あれ?、矛盾しているなと”気づいた”なら、”自愛”しているってことです^^

                                           寧楽感恩