続けるということ、飽きるということ
昨日、「華流書写通信」の最終号を上げました!
小学生・中学生と書道を教える先生方向けの
書道をもっと楽しく、広い世界があることへの興味を持ってもらうための記事にと思いを形にした連載です。
今日は、うらやましく思う気持ちの処理の仕方を
書こうかと思っていましたが、上の前文を書いている間に気持ちが変わり、
このテーマにします。
続けるということが、日本では美徳のように考えてられています。
飽き性がまるで悪いことのように。でも、本当に美徳なのでしょうか?
20年前アメリカで会った方が
「職が転々とできということは、いろいろなことができるとしてアメリカでは評価されるんだよ。」
と当時一生書道まっしぐらという視野の狭かった私に大きな衝撃を与える言葉をおっしゃいました。
いろいろなことができる、
いろいろなことに興味がもてる、
ということは日本では器用貧乏的に言われて
一つのことがずっとできない
一つのことに集中できないという
「負」の考え方を言う傾向にあると思います。
この「負」の考え方があるので
いろいろなことができる人を
「飽き性」というイメージのあまりよくない言葉で形容してしまう方も多くあると思います。
以前、ある鑑定士の方が私に
「あなたは飽き性やからね」と言われた時に
やはりいい気持ちはしませんでした。
つまり、前後の話の脈絡もありますが、がんばっている私の気持に対して
「飽き性だから何をしても、ダメですね」と自己否定をされた気がしてしまい、
がく~~~んとより落ち込み、
こういう日本美徳の塊のような頭の先生からは、
当然何か役に立つようなアドバイスは受けられませんした。
(あなたは書道をやめて、こっちの神様の世界に行くべきだと薦められました。笑)
私は、この鑑定士の方をどうこう言うのではなく、
その人の美徳感や国としての美徳感で話を押し通してしまうと、
本当に苦しくなる方も多いということをお話したいなと思いました。
飽きるということは、
次に目が向くことがあるということ。
つまり、新しい経験を味わうことができるということ。
決して悪いことでも、イメージが悪いことでもありません。
やってみて、いくら興味があってやりたいと思っても、でもいざやってみると
「自分には向かない」と思ったり、
「自分には向かないけれども続けたい」と自分を知ることにもつながります。
しかし次々と職場を変える方には
少しだけ要注意なことがあります。
というのは、
「人のせいにして、
環境のせいにして、
職場を変えようとしていないか?」
という点です。
例えば、相談でもあったのですが、
「自分よりも出来ない後輩が自分の上司になったことも嫌なのだけれども、更に自分には残業を回してくるわりには後輩は先に帰宅する。」というような内容でした。
相談者は真剣に悩んでおられるのですが、
自分で苦労を余計に引き寄せておられます。
・自分と後輩の仕事のレベルと比較している
・自分を評価せず後輩を上司にした会社に不満がある
・仕事をしない上司の後輩から仕事を押し付けられているという被害者意識
と大きく、この外的なものに理由を結びつける「負」の考えがあります。
この「負」に考えになるのは
・評価されるために仕事をしている
・昇進するために仕事をしている
という人からの視点で左右されるものに
本人の評価を与える考えが根本的にあります。
すると、転職をしたところで、
またまた同じような状況になり
転職をしたくなる可能性が大変強いです。
(この点が気付きとなっていれば、
上司が変わったり、スカウトを受けたりなど
魂の親も新しい状況を作ってくれるのですが・・・)
同じ仕事を続けるためには、
気持ちが入りすぎると続けられないという方があります。
興味の先がいろいろと変わることがあるから、
仕事が続くということです。
そのように心のバランスを取っておられる方も
いらっしゃいます。
魂の親がそれぞれ違うのですから
日本の美徳で一括して縛られる必要はありません。
心の行く先が、人よりも早く変わっても何も問題ありません。
心のいくまま
感じるまま
飽き性、多いに結構!
寧楽感恩