はひふへほっ。 笑う門には福来たる

~視えない世界にアプローチ、”愛”と”調和”の宇宙の法則で、地に足つけてみんなで幸せ❤~

自愛パワーを削ぐ”かわいそう”癖 (前)

被害者意識やすね、我慢をやめることで”自愛”の土台が丈夫になってきている!
そんな嬉しい変化がおとずれている方が増えてきたな~と実感し、
自分もその輪の中にあることを嬉しく思っている今日この頃。

その嬉しい変化があるのですが、
なぜか「なんだか心が苦しそう」「なんだか半開きに戻ってる」「喜怒哀楽の喜楽が少ない」、
こんな感じで、”あともうちょっと”感がある。
ご本人も何かちょっとという心で薄々わかりながらでも核心がわからない、
そういう人に少しご自身で振りかえっていただきたいなと思って今日は書きます。

 

 


さっそくエピソードを書きますので、
その後、自分がいつもどの立場の視点でいるのか?を確認していただきたいと思います。

 


その子は、2000グラム程度の未熟児で、そく保育器に。
その子は、うまれつき膝の骨が分離する病気でした。
その子は、生後3か月で親戚のミス(虐待の可能性も大)で太腿の大腿骨複雑骨折で入院3か月。両足に爆弾を抱えました。
その子は、1歳になると保育園に預けられるが、かかりつけの医者に皮肉を言われるほど土日になると高熱発症。
その子の幼い頃の一番大きな記憶は、母親がどんどん見えなくなっていく恐怖と不安。
その子は、幼稚園に行っても前から3番目ほど小さく、やせぽっち。足腰は弱いし、体質も弱い・・・
幼い頃、その子は、ずっとずっと母の心の声を聞いていました。時には、声も聴いていました。

「◯◯ちゃん、かわいそうやね」
「◯◯ちゃん、なんでいつもそうなの」
「◯◯ちゃん、できないね」
「◯◯ちゃん、はやく!いそいで!(ヒステリーを受ける)」
「◯◯ちゃん、あんたがおらへんかったら(よかったのに)」


その子が見るお母さんは、
「私をかわいそうだと思っている」
「私のせいで、お母さんは悲しんでいる」
「私のせいで、お母さんは苦しがっている」
「できない私のせいで、お母さんは喜べない」
そう感じていました。


だから、その子は思うのです。
「私はかわうそうな子なんだ。
 私がかわいそうで、至らない子だからお母さんが悲しがっている。
 お母さんに笑ってほしい!
 お母さんにできる子になって苦労をかけてはいけない!」と。

その子は、お母さんと少しでも繋がりたい、お母さんを喜ばせたいと思って、
その子は、お母さんが喜ぶ姿になるまで、どれだけ苦しくても頑張り出す習慣になっていったのでした。

悲しいかなその子には、
本来子供があるべきはずの「愛されたい」という思いももありませんでした。
お母さんを喜ばせたいという思いばかりで、
自分のせいでお母さんが苦しみ、いつか捨てられるのではないかという不安から、
必死にお母さんについていこうとする思いばかりで、
「愛される」という言葉が辞書にない世界に住んでしまい、
言い方を変えれば”愛”よりも「捨てられない」世界に生まれたようになっている。


自分が意識のないまま「愛される」という言葉のない世界にいた人には
いつか來るのです、「愛」というものが存在する世界があったんだと知る日が。
いつか來るのです、「愛されたい」と思う日が。そして、「愛されるためには努力をしないといけない」と。
いつか來るのです、「愛されている人をうらやましい」と思う日が。そして、「益々愛から遠ざかる”すね”が始まる」と。
それがまた別の苦しみを生んでいく。
その思いは両親に出ずに、パートナーを求めることに出たり、何かに依存する形で出ることもある。
でも、幼い日々にわかるわけがありません・・・・


幼き日、


お母さんが喜びは自分の喜び。


そんな風に
愛されることよりも、母の喜びを選ぶことが自分の喜びと勘違いしてしまった・・・


かわいそうな子とわが子を卑下する母でなく、あなたの子は素晴らしい子だよと証明しなければならないと勘違いしてしまった・・・

 


そうして、その子は、
「かわいそうな子と言われたくない!」
「みんなと同じようにできる子になりたい!」
「ダメな残念な子と見捨てられたくない!」
と、自分の身の”安心”を得たいために
母の心を生きる尺度にする術が自分の生きる方向だと信じて生きていくことになるのです。

 

この「その子」が大人になるにつれての変化編は次回のブログ、後篇で見ていきたいと思います。(という予定でいます)
今日はここまでです。


このお話を読んだ時に、
あなたはどちらの立場で見ていましたか?

 

 

お母さんですか?
その子ですか?
両方ですか?

 


そして、
もしあなたの心の中に「その子」「お母さん」に対して
”かわいそう・・・”という感情が出てこないのであれば、
すでにあなたは”自愛”パワーを削る考え方にはあまりなっていない状態。
他に”自愛”パワーを削る考え方になっている理由があると考えていいと思います。

 


その子のお話を読んで、
「お母さん」「その子」に対してどういう思いが出てきましたか?

 

 

それぞれの人で違う思いがあると思います。
何にも思わない人もいるかもしれません。
自分に似ているなと思う人がいるかもしれません。
十人十色、それが人です。

 


では、その思いについて、この二つの思いに焦点を当てて、
どちらが大きいかを考えてみてください。

 


かわいそう
悲しい


どうですか?
この話では難しいならば、
あなたが今置かれている状況、
あなたの生きてきた時間、
あなた自身に置き換えて、考えてみてください。
あなたは、あなたを かわいそうと思う時が多いですか?
例の「その子」の話をしたのは、あなたの「感じ方・捉え方」をあぶりだすために示したものですから、
もしここで「かわいそう」と全く出てこなかったあなたは、”以下は読まないでいいくらいですからね。

 

 

①かわいそう  悲しい
②かわいそう  悲しい
③かわいそう < 悲しい

 

①.②の人は、「かわいそう」が強すぎです。
その理由とともに、”自愛”との関係を見ていきます。

「かわいそう」と「悲しい」。
見ている視点が違う感情だということです。

 


かわいそう・・・・2人称または3人称
悲しい・・・1人称


悲しいは自分が悲しいですから、1人称。
あくまでも、自分が自分で感じる1人称。
魂と繋がっている”本当の自分”のfeelingという意味での、思い・感じです。


でも、かわいそうは違います。
自分で自分をかわいそうと思うのは、1人称のようで違います。
だから、かわいそうは2人称。3人称としました。
何かその違いがわかりましたか?


そうなんです。
かわいそうの時って、”対等”な立場でのfeelingではないのです。
かわいそうと思う方が、「上」の立場になっていて、
かわいそうと思われる方が、「下」の立場になっている。


かわいそうと思う時には、何か誰かを「見下している」ということになるのです。

だから、
他人をかわいそうと思うと他人を「見下す」ことになるので、反”慈愛”。
自分をかわいそうと思うと自分を「見下す」ことになるので、反”自愛”。


一見、「かわいそう」というような感情は、優しい感情のように見えるのですが、
しかし、厳密に”立場”という視点から分析すると、
いつも「上」「下」があるということになります。”対等”ではないです。


この優しそうに見える感情のその奥にあるからくり。
それは、自分の中の”姑”的考え癖(思い込み)が存在が原因です。
この自分の中の”姑”的思考は、世間一般の概念(神様が反”自愛”とする能力・地位名誉・金銭主義、世間の常識・知識などの思い込み)ですから、
”愛”基準の尺度ではないわけです。
大きくとらえると「できるできない」「あるない」で優劣づけされた尺度が基準になっています。
できる「上」 > できない「下」
ある「上」  > ない「下」


”愛”でなく「上下」でもって人を判断ようになりやすいのが、”姑”的考え方です。
だから、自然と優劣が出てきてしまい、「見下す」という考え方の発生に繋がっています。


かわいそうと思いやすい人は、この”姑”が常時口を出しやすくなっていて、
この自分の中の”姑”的考えを意識しないで、放置しておくと、
すぐに人を「見下す」だけでなく、自分をも「見下す」ことをしてしまいます。
いわば、常時自分にダメ出し、あら捜し、見下そうと、自分の頭の中の”姑”が自分を見張っている・・・・見張っているだけでなく、自分をマウンティングしています。
それでは、疲れてしまいます。⇒だから自愛パワーが削がれてしまいます。

 


「かわいそう」と言われ続けて、自分を「かわいそうな人」と思い込んでしまっただけ。
それは、思い込んでしまっただけなので、あなたにも誰にも罪はありません。


「かわいそう」と思ってしまう人、その子のお母さんも含めて、
人を「見下す」意識は到底ないと思います。
けれど、そう思ってしまう人も、その子のお母さんもそのように「思い込まされてしまった」だけなのです。
ただ、”気づく”ことができたらなら、意識的にやめていけば、それで生活の中での連鎖も止まります。

 

 

 


お母さんから引き継いだ、
誰かから引き継いだ、
「自分を下に見て、かわいそうと思う」という
”姑”の考え方をもとにした視点は自分のためにもうやめてあげましょう!


自分を「下」に見る、
つまり自分を見下す・卑下することがなくなれば、
周囲の人も、あなたを下に見たり、見下すことがなくなってきます。
あなたが、あなたをマウンティングをやめれば、人もあなたをマウンティングすることがおさまってきます。
(思ったことは現実になった宇宙の法則が発動しますので)

 


悲しいことが起こったら、
「悲しかった」だけいいのです。
「かわいそう」と”姑”視点になる必要はないのです!
その自分を下げる”姑”視点、無駄に多いのです。


出来ないことに出合ったら、
「できなかったな」だけでいいのです。
「なんで出来ないの!ダメな子!」と”姑”視点になる必要はないのです!
その自分を下げる”姑”視点、無駄に多いのです。


悔しいことが起こったら、
「精一杯やったね。よくやった。」と愛だけでいいのです。
「悔しい!なんでもっとしっかりやらなかったの!」と”姑”視点になる必要はないのです!その自分を下げる”姑”視点、無駄に多いのです。


羨ましく思ったら、
「私はあの人みたいにしたいんだな」と愛で認めてあげるだけでいいのです。
「羨ましいなんて嫉妬くさい。ハシタナイ。どうせ無理だよ、あなたには」と”姑”視点になる必要はないのです!その自分を下げる”姑”視点、無駄に多いのです。

 

 

 

”自愛”をするという意味でも、
自分が何を感じたか?
それだけで完結していいのです。
自分を自分で「見下す」、そんなことまでしないでいいのです!
追加して考えるならば、「次はどうしたいの?」と自分に問いかけるだけでいいのです。

 

 

悲しいだけでもつらいのに、
自分の中の”姑”がその自分をさらに追い込んで、ますます自分をつらくしていく・・・


自分まで母親視点(”姑”的考えの視点)になって、
自分を責め始めたり、見下したりするのは、自分へのパワーハラスメントですから!!!


”自愛”をいくらしても、このように自分で無意識にパワーを削いでいることがあるのです。
例えば、自己憐憫(わたしはキャンディーキャンディー病と称しています)もその一つですからね。

 


かわいそうな人はいないのです! 
ただ必要な経験をしているだけ。
そして、かわいそうと見下して心配しないでも、
自分には、ちゃんと死ぬまで生きる力がちゃんと宿っているのです❤
(自分以外の人にも、同じようにちゃんと力が宿っているので、「信じてあげる★」それだけでいいのです)

 

 

●今日のお話しを少しまとめると


あなたは「悲しい」と思うだけでいい。
お母さん的立場で”姑”的考え方になって「かわいそう」まで思う必要はないのです。


自分の中の”姑”が、自分を「見下し」しているだけなのですから・・・・
もういいでしょう、自分で「見下し」プレーをするのは★
自分で自分を見下さない❤ 自分に失礼です。

 


対誰かに対しても同じこと。子供や体の調子が悪い方にも同じこと。
怪我をした人を見た時には
”見下ろす反慈愛”視点で、「かわいそう」「大丈夫や(上から目線で)」よりも、
”自分と対等な貴い存在として慈愛視点(共感・同じ情という同情)”で、「痛そう」「大丈夫(安心視点)」。
人に「かわいそう」と言われたら、
「かわいそうじゃないもん、痛いけど><」と思っていたらいいのです。


できないことがあっても、
どんな自分であっても、
「かわいそう」なあなたはどこにも存在しません。

 

 

”自分を見下しながら、自分を大切にしているんです。”
あれ?、矛盾しているなと”気づいた”なら、”自愛”しているってことです^^

                                           寧楽感恩

 

自分を被害者意識に戻らないコツ★ ■に籠らず、◯に出す!

「そろそろブログシーズンだな~、神様、何かテーマあるかな」と考えていると、
ここ数日、”いい人との出会い”があったんですと、
書道の生徒さんやセッションのお客様から報告がたて続いていることが頭によぎりました。

このいい人との出会いというのは、恋愛でのパートナーが見つかったことではなく
共通していたことは「自分のことを素敵だと認めてくれる方」との出会いです。
この仕事を辞めてもプライベートでもお付き合いしてほしいとか、
そのままのあなたでいてほしいとか、
●●さんと知り合えてよかったとか、
損得目的でなく、駆け引きでもなく、裏心があるでなく、
心から自分の存在を喜んでくれる、存在を肯定してくれる人が周りに現れているということです。


この方々に共通するのは、
①クリーニングをして ・・・負の波動を愛の力でフラットに戻す
②被害者意識(我慢やすね)を減らして ・・・自愛の土台をつくる
③自分の本音(好き嫌いなど快・不快の感じ)に従い ・・・自愛する
このように、自愛しながら自分らしく生活をしていただいたことです。
①→③へ、完全でなくても進んでおられるということです。
だから、とにかく”本当の自分”の心に正直になっておられます。


大きくはこの3つの柱です。
被害者意識への取り組み方はここのところブログで、期間を持って書いていますので、
自覚を持って取り組んでくださっている方には、何かしらの変化があることと思います。

しかしながら、②の被害者意識を抜けたかなと思うとまた戻ってしまう方というのもおられます。
これも今まで生きてきた方の考え癖ですから、それはそれでいいのです。
徐々にやっていけばいいのですから、自分のペースが自愛のペースです❤


でも、ずっと②へ行っては③の繰り返しをやるのも、つらいものです。
できるものなら③へスムーズに行きたいではありませんか^^
ということで、今日は③、つまり自愛の前提の土台をしっかりと固定させ、被害者意識に戻らないコツを書いていきたいと思います。


タイトルにも書きましたが、このコツとは


に籠らず、◯に出す」です。
(自分を知るという自愛のために、■と◯を自分なりにちょっと考えてみてください^^)

 


具体的なヒントとしては、
昔むかしに占いサイトで鑑定をしていた時の一番多い質問です。
「彼はどう思っているんですか?」
「彼はどうして・・・するんですか?」
「彼はどうして・・・と言うんですか?」
これって、「■に籠らず◯に出してみないままで、どうして本人に聴かないの?」とよく思ったものです。
聞けないのは”関係が壊れる”と恐れから聞けないのはわかりますが、
”聞いて関係が壊れる”と思っている間は、自分は好かれていないから好かれたいという思いや、
壊れた困るという思いがあるので、結局宇宙の法則で、自分でなって欲しくない未来を引き寄せてしまうということになっているのですが・・・

 

 

さて、■と◯について見ていきます。

自分が②で示す被害者意識になっている時の自分の心を振り返ってみてください。
私がセッションでいろんな方をお話を聞いたり、自分の経験からすると、
心がクローズしている、半開きの状態になっています。
被害者意識(ダメだの自己否定・自責や、すね、ひがみなど)、
それに加えて被害者意識からくる我慢・不満と
”負”の波動を発生する考え方のオンパレードになっていると思います。


そして、そもそもこの②の被害者意識が強くなる人というのは、
芋ずる式に1あるものを10にも20にも膨らましてしてしまう考え癖があります。

未来に対して、
こんな私だから、こうだからこうなって、こうなったら、こうなって・・・・となって欲しくない・望まない未来を妄想するのも得意です。不安の妄想が得意です。

また、
過去に対して、
あの時はこうだった、それはあの時がこうだったから、あの人がああだったから・・・と掘り起こしても何も解決せず、自分が”不快”になる思考の連鎖が得意です。

 

”不快”という嫌な思いになったことを思い出しては思い続ける。
”不快”という嫌な思いになるように自分を結び付けては想像し続ける。


起こってもない未来に対して、
起こってしまった過去に対して、
悶々とし続ける癖です。


起こってしまった過去に対して悶々としている
悶々の自分だから、未来も光のない不安なる未来を悶々と見てしまう癖です。

ようするに、ぐるぐるが得意な人です。ぐじぐじ考えるのが得な人です。
これをやっていると、ずっと意識的に自分は被害者なわけですから、なかなか自愛の土台ができてこないわけです。


この悶々とする癖のある人は、
心が傷ついた経験あって、
それを言葉として表現してこなかった、できなかったから、
自分の心の中で、悶々とすることを身に着けてしまったのです。

「そんなこと言ってはいけません」
「言い訳はいりません」
「できないなんて言ってはいけません」
「わかって欲しいなんて甘いこと言ってはいけません」
「人と同じようにできないなんて言ってはいけません」
「失敗はしてはいけません」
「人と劣ってはいけません」
「みんなと合わせられないのはダメな人です」
「あなただけできないのはおかしいです」
「頑張れない人はダメな人です」
「あなたを好きではありません」
「太っていているのはダメです」
「あなたの意見は聞いても無駄」
「あなたは愛されない」
「丸くおさめるためには自分を出してはダメ」
「与えられたことは一人でやり抜きなさい」
などなど、
こんなあなたの世間の価値観・社会通念・失敗の経験・常識・しきらりなどを大きくひけらかす頭の”姑”がいつも大々的に支配しているからです。


”姑”が、ず~~~~~っとあなたを責めたり、批判や否定、後悔をさせたりと、
“自愛”でも”慈愛”でもない愛とは真逆の言葉を
いろいろとずっとあなたに言い続けている状態だから、心を表現する隙も与えてもらえなかった状態と言えます。
当然、”姑”に責められている・コントロールされている”本当のあなた”は、どんどんと萎縮してしまて、ますますもぐらになっていきます。
どんどんと閉じて、”本当の自分”を出せなくなっていきます・・・・
そのうち”本当の自分”を忘れてしまいます。自分らしさを失います。


その結果、”本当の自分”がいなくなって、”姑”があなたを乗っ取ってします。
あなたがもし、やりたいことがわからない・好きがわからないならば、
”姑”が”本当の自分”を乗っ取ってしまっているからと言っても過言ではありません。

 


上に書いたような状態は、自分自身が”姑””役をして、”本当の自分”もいる。
二役を一人で演じて、それも自分で自分をいじめているプレイ。
それではず~~~~~っと自分で自分を被害者にしてしまいます。
それが、ぐるぐる・悶々癖です。


こんな風にして、自分でどんどんと深く深く入っていく。
自分で自分をどんどんと沈めていくのが、悶々癖です。


だから、②の被害者意識に戻らないためには
この悶々癖をやめることが大切です★

 


そろそろ答えがわかってこられましたか?

 

 

 


答えは、
内に籠らず、外に出す

 

 

自分の心の中に籠らないで、外に表現していきましょう!
ということです。

 


ここで注意して欲しいのは、
無理やりに心に籠らないように考え癖を付ける ということではありません。
思ったことを思ってはいけないと自分で抑えたり、打ち消すことではありません。

”思う(感じる)”ことは自由ですから、“思う”こと自体が”自愛”です。
だから”思う”ことを自分から取り上げてはいけないのです。

当然この”思う”は、喜びや楽しみ、平穏、幸せといった”快”ジャンルに含まれるものだけではありません。
イヤだと思うこと、つらいこと、怒りやイライラ、痛みといった”不快”ジャンルに含まれるものも入ります。
”喜怒哀楽”とはよく言ったもので、すべて”思う(感じる)”ことは自由として与えられたものなのです。だから自分で取り上げてしまっては反”自愛”なのです。


”不快”のジャンルに含まれる”思い”をできるだけ持ちたくないのは誰でも同じ。
けれども、この”不快”のジャンルの”思い”を「悪いもの」として扱う必要はないのです

キラキラスピリチュアルをやってしまう人は、この”不快”の”思い”を除外しようとしてしまいます。あるのを無いように、見ないようにしようとするから、より拡大化されてしまうのです。


この”不快”ジャンルの”思い”は、神様から「自愛が足りませんよ」という合図なのです。
だから、
この”不快”ジャンルの”思い”から逃げない! 蓋をしない! と言うことの方が”自愛”なのです。
”不快”ジャンルの”思い”に出会った時、
その思いに向かい合い自分を知り、どのように対処をするか? 
それが本当の意味での”自愛”の方法であり、過程です。

 


だから、
自分の中の悶々とする思いを”内に籠めて”いてもどうしようもないのです。

”内に籠めて”いると、それが磁石となり、思ったことは現実になるという宇宙の法則に従って、
同じように悶々に繋がる”不快”ジャンルンの”思い”にまたなるような現実が引き寄せてしまいます。
その都度、「早く自愛をしましょう!」と神様の思いが寄せられることになるのです。
同じような問題や嫌なことが起こるのは、このロジックです。神様のエンドレスラブです❤

 


まずは”内に籠らない!”と自分自身で決めてみてください★


このように、自分で一旦決めることから第一歩!!

 


ここで、一つ、私”内に籠ってない”と思っている人、普段明るく振舞っている人、
こういう方ほど”内籠り”には注意してください★
明るい人ほど、実は内に籠っていることも多いあります。
悶々としている”不快”に思う自分を隠そうとしてしまって、明るく振舞ってしまう・・・逆をやってしまうんですね。
すると、あなたを粗末に扱う人が集まってきます。あなたを軽視する人が集まってしまいます。
なぜなら、あなたがあなた自身を粗末にしている思いが現実化してしまうのですから。

少しの時間であろうが、長い時間であろうが、うじうじと内に籠ってしまう自分がいるのを明るさで誤魔化しては自分が可愛そうです。
ずっと”本当の自分”の悲鳴や悲しみのつらい声を自分で誤魔化してしまうのですから・・・それはあなたたあなた自身を粗末に扱っているのにほかなりません。

 


”不快”ジャンルの思いに出会った時には、しっかり感じる!
ひきずって”内に籠らない”!がポイントになります。

 

 

 

そして、その次のステップとして
”内に籠もらず、外に出す”の”外に出す”をやっていきましょう!


”内に籠もらせない”ためにも”外に出す”って大切なのです。
内に籠る人の大半は、外に出すことが苦手。

それは、
「言い訳は聞きません」
「できないは理由になりません」
「ダメって言ってはいけません」
「あなたの感情は聞いていません」
「わかって欲しいなんて甘いです」 などなどと

言われた経験でもって身に着けてしまった思い込みである
頭の中の”姑”の考えがあなたを支配してしまって、
自分の気持ちを言えなくなってしまっているので、外に出せなくなっている。


今まで生きてきた経験の中で、

言っては叱られる、
言うと失敗がばれるのが怖い、
言っても無駄、
どうせわかってもらえない、
これ以上傷つきたくないとか、
これ以上自分が見下げられたくないとか、
そんな苦い思いがあるから、外に出せない。その気持ちもわかります。

けれど、自分の気持ちが言えないというのは、言わないというのは、
この頭の中の”姑”に言われ続けるのを避けるための自己防衛のようで防衛でない方法なのです。
ただ固まってしまったように内に籠ってしまうという方法は、防衛法ではないのです。


そこで、”自愛”に基づく対処方法が、
”外に出す”ということになるのです。

自分の思いを表現するという”自愛”があります。
だから言葉を神様は人間には与えてくれました。
表現していいのです!
表現する自由があるのです!
伝えていいのです!

相手の反応はどうであっても、
相手が自分の期待する反応をしなくても、
どんな反応が来ても構わないのです。(反応に、一喜一憂しないでいいのです)
とにかく表現する!表現する”自愛”をする!
外に出す”自愛”ができれば、宇宙の愛の波動に同調できるので神業が起きます。
(相手の反応を気にしている時点で他人軸になっているので、”自愛”ではありません)



”外に出す”表現する時に、”自愛””慈愛”として忘れないで欲しいことがあります。
①本心を素直に伝える
②相手を攻撃しない(心も言葉も)
この2点です。


つらいならつらい、
わからないならわからない、
悲しいなら悲しい、
できないからつらい、
困っているなら困っている などなど
「音を上げた弱い人」「迷惑を掛ける人」「できない人」と思われても構わないという勇気を持って
自分の素直な本音である”思い(感じ)”を伝えてみましょう!
また、必要であれば、「私は・・・したい」という意思を伝えてみましょう!

 


・わからないのに、わかろうと頑張りすぎるから、「わからないのにどうしよう。。。また、前みたいになるかも」と悶々だけでなく、過去を芋ずる式に出して更に悶々します。
・悲しいのに、明るくしようと頑張りすぎるから、「私悲しいのにわかってくれないし。。。なんでわからないの?」と悶々だけでなく苛立ちも出てきます。
・できないのに、1人でやり遂げないといけないと頑張りすぎるから、「私ばっかり苦労して。あの人は・・・してるのに」と悶々だけでなく苛立ちも出てきます。

こんな感じで被害者意識で内に籠っていると、「どうせ私のことなんか・・・」と自分で勝手に孤立して、ますます生きにくくなってしまいいます。


だから、「どうせ私のことなんか・・・」と諦めの境地にならずに、
表現する自由という”自愛”を思い出して、実行してください。

人の言葉で傷ついたなら、相手は攻撃せず、こういう理由で傷ついたと心を素直に表現すること。
わからないなら、相手は攻撃せず、こういう部分がわからないから教えて欲しいと心を素直に表現すること。
嫌なことを依頼されたり、誘われたら、素直に断りを表現すること。
悲しい時には、相手を攻撃せず、こういう理由で悲しいのでと心を素直に表現すること。


職場で自分が仕事ができないので、内に籠ってしまうとか、
家族がどうせわかってくれないと思って、内に籠ってしまうとか、
パートナーがどうせわかってくれないと思って、内に籠ってしまうとか、
それでうまく進まなくなっている方が多いのです。

 

 

言わないとわからないのです、相手は!
言わないと伝わらないのです、あなたの思いは!
勇気を出して!


”内に籠る”で反”自愛”をやってきた人は、
”外に出す”という”自愛”をやるだけで、
出会いの質や状況が変わってきます。
今日のブログの冒頭に書いたように、
あなたを肯定してくれ、あなたと同調する”自愛””慈愛”の人を引き寄せることになります。


言ったら悪いなと思う罪悪感は捨ててくださいね!
傷つけたら悪いなと思う罪悪感は捨ててくださいね!
自分の思いを伝えるのが”悪”では、自分を守ることさえできなくなりますから
その罪悪感は、頭の”姑”があなたに与えているものです。
”姑”が先回りして、
「そんなこと言ったら相手が嫌がるかも」
「そんなこと言ったら相手が困るかも」
そのように思わせてきたなら、それは完全に勝手にあなたの思い込み。
相手がどう思うのかは、勝手に推察する必要はないのです。
言う前から相手がどう思うかと他人軸になっていては、何も始まりません。


素直に心を表現して、それが通じない相手ならば、
それだけの相手なのです。
私の経験でも、事実を挙げ思いを伝えたことがあります。
相手の反応は、冷たく愚痴ばかり言ってきてと答えがありました。
冷たく相手が感じたのでは、事実を淡々と伝えたから。
悲しいや嫌だと私の思いを愚痴扱いする人は、「愚痴と人の思いの判断もつかないのか~残念。人の思いを引いては自分の思いをすべて愚痴と思っている人なのだ」と思って、差支えありません。”自愛”と“慈愛”の勉強具合がそれぞれに違うのですから、相手を説得する必要もありませんし、
無理してそういう人にわかってもらう必要もないと思っていてちょうどです。

本当に”自愛”を知っている人であれば、
あなたの本心を聞けば尊重してくれるのです❤
言いづらいことを言葉にしてくれたと”共感”してくれるです❤


言いにくくとも伝える勇気を持って、
相手の顔色を気にせず、怖がらずに“自愛”として”外に出す”をやってみましょう!!    


”内に籠らず、外に出す”が習慣になっていくと、
今までどうして自分をがんじがらめにしていたんだろう?
こんなに楽に生きられるのね❤と実感するときが必ずやってきますから。

感じたことを素直に言葉で気兼ねなく伝えることのできる関係広がりますから!
変に気を遣って頭を使うことのない素の自分が受け入れられ自分らしくいられる関係が広がりますから!


自分の思いを伝えることで、”自愛”が進むことで、
今まで関わりの人と合わないなとか、自然に疎遠になったとしても、
反”自愛”をしていた自分に合っていた時のご縁だと思って、
悪いなとかご縁を追いかけようとしないで構いませんからね。


          外に出して、自分で自分をこじらせない❤ 寧楽感恩    

【重要】愛❤と幸せ★の膨らむ「正しさ」とは?

”自愛”をするために、その土台作りために、被害者意識を減らしていきましょうという内容をずっと書いてきました。そんな中、セッションをしていてもなかなか言葉が入っていかない方に多いパターンの方に見られる傾向があるので、その点について書いてみたいと思います。「でも」が口癖になっている方にも参考になると思います^^

 

しっかりやっているのに
ちゃんとやっているのに
頑張ってやっているのに
あなたのためにやっているのに
みんなのためにやっているのに
どうしてわかってくれないの?
どうして反対するの?怒られるの?
何が悪くてうまくいかないの?

 

「でも」と言いたくなる状況も増えていきます。
こういう思いが積み重なっていくと、
どんどんと追い詰められているように思い、
不満不平だけでなく、我慢はとうに過ぎ、被害者意識も爆発します。
そして、どんどん自分自身を閉ざしていく・・・・
ひねくれるし、ひがむし、すねるしと自分で自分を悪化させていくことになります。
心の余裕もなくなり、
心はとても重く、”負”の波動の塊になってしまうわけです。
どんどん重箱の隅をつつくように、小さいことに敏感に反応しては、また嘆く。
孤独とつらさのスパイラスに入っていきます。


でも、そこに一貫してある思い(考え)っていうのがあると思うんですね。
自分が手放す方が幸せになれる思い


セッションをしている時も、
この思いが強い方ほど、「でも」と言う・・・・・


わかりますよ、自分をわかってもらいたいという思い。
わかりますよ、「そうだよね」と言ってもらいたい思い。
わかりますよ、あなたの考えを認めてもらい思い。
わかりますよ、あなたの考えを実行してもらいたい思い。


それこそ「でも」と言いたくなる、その思いがあると、
あなたに来ているはずの”気づき”に”気づけ”なくなる。
せっかくあなたの魂の親である神様が幸せになって欲しいと合図を送っているのに
自分から跳ね返してしまって、また神様からは”気づく”まで似た状況を与えられることになります。エンドレスラブが来つづけます。

 


さて、この「思い(考え)とは何でしょう?

 


ヒントは、
私は普段の生活はもとより、セッションでも、ブログでも、
できるだけ意識して使わないようにしています。
”本当のわたし”が押しつぶされて、頭の思考全開の”姑”ほぼ100%で生きていた私は、
この「思い」が強すぎたために、苦しみました。
どこまで神様のエンドレスラブは来るんだ!と、この「思い」に”気づく”まで、
生きるのがつらかった。どちらかというと、自分で生きにくくしていました。


私がこの「思い」に気づかないでいるかぎり、
神様の媒介として登場してくれている目の前の人だったり、
目に映ったり、耳で聞くものもすべて神様からのメッセージとして受け取ることはもちろん、受け入れることもできなかったから。
すると、いつまでも”気づく”ことはなく、
苦しい思いが更に苦しい現実を引き寄せるという宇宙の法則通りに人生が進んでいたのです。

 


なんとなく、この「思い」、ひらめきましたか?

 

 

 


答えは正しさ
ブログのタイトルでピンときた方もあるかもしれませんね^^

 

 

 

もっと言うと、
「自分の正しさの押し売り」 
というような自己の「正しさ」です。

 

 

 

そもそも「正しさ」は誰が決めるのでしょう?
ここで言う「正しさ」とは、1+1=2のような人間が決めた絶対的なことに対してでなく、
生きている中で遭遇する答えがひとつでなく、さまざまな”愛”にもとづく回答が出せるものに対してです。

 

 

私も物心がついた時には、自分の頭にある”姑”の言うままに
自分が「正しい」と思うことを堂々を主張していました。
生きにくかったですね、本当に。

 


でも「正しさ」とは、誰が決めるのか
神様からのお知らせを受けている中で教わりました。
セッションの中でも教わりました。

 

 

例えば、
AさんとBさんがどちらも自己の「正しさ」を主張して口論をしています。
どちらが「正しい」のでしょう?


分かりやすく言うと、どちらも「正しく」ありません。

 


「正しい」を決めるのは、人間ではないということ。

 


そもそも「正しい」を決めるのは、
個々の魂の親が決めるのであって、
また魂の親の親である宇宙の神様が決めるのであって
人間ではないのです。


個々の経験や常識、学んだことからの頭の”姑”が主張する「正しさ」は、
一見正しそうなのですが、本当の「正しさ」とは言えないのです。

 

 

 


「正しい」かどうかは、あなたの神様が決める!

「正しい」がどうかは、AさんならAさんの神様が決める!

 


(「正しい」がそれぞれでバラバラなら、混乱してしまうのでは?という質問が来るかもしれませんが、後でも書きますが、この「正しさ」は宇宙の愛の波動にの取った宇宙の法則にのっとっているので、あなたが考えずともあなたの神様がいろんな方の神様が、すでに調和をして決めてくれています。
それぞれ人にとって「正しさ」が異なっても、”愛”の波動の範囲なのですから、それは「正しい」になるのです。宇宙は愛で調和が取れているのです。)

 


「神様は正しさを決めるとしたら、あなたはどうすればいいのか?」というと、
あなたは、その時その瞬間に、
”本当の自分”の声にできるだけ従って、
”愛”をもって、その声に従って思いついた・ひらめいたやり方で、
「ベストを尽くす」「最適をする」しかないのです。


そして、、そのあなたの思った「ベスト」「最適」が、
「正しかった」かどうかは、神様が見せてくれる現実という未来でわかることになるのです。


神様的に
「正しかった」ならばあなたにとってそのままGO~~!のニュアンスの強い現実がやってきますし、
「ちょっと違う」ならばあなたが再度挑戦する・再度同じトラブルになる現実がやってくる。

 

 例えばで見てみると、

例えば①.AさんとBさんが同じように教わって仕事を始めても、Aさんはスムーズに行く。同じ方法でやっているのにもかかわらずです。
例えば②.Aさんが昔やってダメだったけれど、今やるととヒットしたというような場合。

 

例えば①は、Aさんの神様的にはその方法は「正しい」になるのですが、Bさんの神様はBさんに違う方法を見つけてくださいと合図を出したのです。
例えば②は、のAさんのタイミングや様々な学びの度合いで神様的に「正しい」となったので、その状況になったと解釈できます。

 

 

だから、「正しさ」というのは、神様に預けてしまってください^^
でも、自分で「正しさ」を見つけようとする人もあると思います。
そうなると、頭を使って”姑”全開で考えると、余計に遠回りになります。
”本当の自分”には、答えが神様から伝わって来ているはずですから。
もしくはですよ、自分で”愛”が一番感じられる方法はないかと思いを巡らせてください。


正解を見つけようとするのは、私たちがこの社会で習慣にしてしまっていることですが、
正解を探そうとする方が、遠回りになるのです。頭を使わない、心や直感を使う^^
だから、「正しい」は神様に預けてしまってしまうと考える方が、変に苦労して正解探しをしないですむのです。”頭”を使って正解探しをするよりも、“自愛”になることをしているほうが、結果的に進みも早くなるのです。

 

 

 

次は、私が経験でお会いする苦しくなっている人のタイプに多いのは、
「あなたが正しいと思ってやったとしても、あなたの神様は、そう思ってないから~~><」
というアドバイスをしたくなることが結構あると言えば、あるのです。
こういうタイプは、セッションをしていても、その方に言葉がなかなか入っていかないタイプです。「でも」というバリア、被害者意識バリアが邪魔しているからです。

 


このタイプの方は、宇宙の法則の”類は友を呼ぶ”で、
自分が「正しい」を主張するから、同じように「正しい」を主張する相手を引き寄せて、ぶつかるので、やりあってしまうので、お互い相手に嫌悪感があるので、
人間関係は苦しくなっておられる。苦しい状況もやってくる。

 

 

自分が「正しい」という気持ちを一旦横に置いて、神様に預けてしまうと、
”自分はこれが最適と思うけれども、神様的にはどうなのかな?”
”自分はこれが最適と思うけれども、相手はどう思うかな?”
そんな風に、「正しい」を押し売りしようとしていた一方的な”負”の波動全開ではなくなり、目の前にいる人と同じ土俵に立つこともなくなり、
心に余裕も生まれ、時には相手の言葉を通してのあなたへの神様の言葉も素直に受けることができるようになります。


すると、問題解決への糸口になる神様の言葉も受け取れる上に、
あなたが相手の声を聴こうとする”慈愛”をするのですから、相手もあなたを”慈愛”してくれるようになるという、
生きやすくなる環境を自分で作っていくことができるようになります。


「正しい」意識が強かったり、自分は「正しい」思ってやってきたと自己正当化の癖が強いと、
子供のようにふてくされて相手の話を聞く姿勢になったり、
否定されるのを防ごうという防衛反応過剰で対等の関係の姿勢になれなかったり、
人の言葉や思いを受け入れる姿勢になれなかったり、
自分の正しさを大切に思うので相手を裁いて見るようになったり、
自分だけの「正しさ」が主となる”正義感”を振り回まわしたり

と、いつも自分は「正しい」という立場でいるので、
人や出来事を受け入れることができず、
だんだんと、何かのせいにしたり、”他人軸”になったりもしがちです。

 


人や出来事を受け入れる ということは、
そのを通して、
その出来事を通して、
あなたの神様が送ってくれている”自愛””慈愛”してねというメッセージを受け取る ということ。
”受け入れない”まま自分の「正しさ」を主張していては、
ますます神様も「ちょっと考え欲しいのに・・・”気づいて”欲しいのに><」となり、
考えてくれるようになるまで、エンドレスラブで何かしら起こしてくれるのです。


どんな状況においても、
立場が変わると見方が変わります。
立場が変わると大切にしたいものも変わります。

社長と社員、
親と子供、
キリスト教イスラム教、
日本と他国、
それぞれの立場で幸せを求め、愛を求めるのは当然なのですが、
おのれ側の「正しさ」を主張するがために、
相手側を攻撃する、批判するという敵対関係になるようなことを、
神様が「よくやっているな、もっとやれ!」と言うわけがありません「間違っているから、”気づき”なさい」と言われて当然です。

 


人間の思う「正しさ」は人間の創り出した価値観の”姑”の「正しさ」なのですから。

「正しい」の主張をしたくなった時には、
また「正しい」を意識しないできた方には、

 


対処法として、

「逆もまた真なり」
「正しさは神様が決める★」
と心でつぶやいてみてください。

 

このように思うことで、
自分から発している”正しいのに何を言っているの!”という相手への攻撃波動が消えます。

 

 

では、
神様にとって「正しい」とは何か?


あなたが幸せになる方向、
あなたが自分を愛す(自愛)方向、
あなたが他人を愛す(慈愛)方向、
あなたがこの地を愛す(地愛)方向。

”快”の愛の波動に同調する
宇宙の法則にのっとった方向である、思いや行動です。

 


この方向からずれると、
あなたはあなたの神様から合図が送られてくるのです。
”ちょっとその考え方変えてね~。気づいてね~~”と。

 

 

私は私なりにですが、
セッション中、ブログでも
「正しい」をという言葉はできるだけ使わないように意識をしています。

その上で、セッションではあなたの神様、ブログなどの私的な活動ではわたしの神様にとって「正しい」方向を問いかけ、答えをもらいながら、
”それはちょっとずれていますね”
”それは間違っていますね”
”まずいですね”
”それはちょっとおかしい”というような
「神様の正しさ」とは”ずれている””間違っている””まずい””おかしい”などの表現をしています。
逐一「神様の正しさとは・・・」なんて前置きはしませんけれど。

 


私自身の生活では
「自分なりに最適だと思っているけど、どうかな?」
「自分なりに最善を尽くしたけれど、どうかな?」
と、神様からの合図が入るかもしれないと心の余裕を持つように心掛けています。
このように思うと、
自分が絶対だと主張する気持ちも抑えられますし、
人の話も偏見なしに、自分をわかってほしい波動全開で話すことが控えられるからです。
心も軽くいられます^^

 

 

 

 


「正しさ」を主張すると、相手からも主張される。
「正しさ」を伝えようと攻撃波動を乗せると、相手からも攻撃される。

 


自分でそういう現実を作るのをやめるために、
みなさんも、それぞれの方法を見つけてください★
私よりももっといい方法があることもあるでしょう。

 


神様から「正しくない」合図が出た時には、
あなたが少しでも早く宇宙の”愛”の波動に同調できて、
幸せになってもらいたいからのお知らせなので、
素直に受け取って、そして、落ち込まず、被害者意識にならず、
「神様なんで!!!恨んでやる!」って思う必要ないですから。
(一瞬思ったら、打ち消さず、どどっと思いに浸りまくって、そのあとには、”愛”のある言葉を掛けてあげてください❤”自愛”です)


昔私は、そんな風に、
自分にも神様にも喧嘩を売っていました><
→そりゃ苦しいはずですわ。しんどいはずですわ。
→”姑”ばっかりで”本当の自分”が死んでしまってたはずですわ。
(今の私は思います 笑)

 


そうそう最後に、
神様の「正しさ」はひとつではありません!!!
神様そんなケチでありませんから。

何かがあって、あなたの思う答えが
”愛”に裏付けられた宇宙の法則にのっとっていれば、
その範囲であれば、

神様的には「正しい」としてくれるのですから、OKです。
だから、ひとつではないのです。方法ややり方、考え方はひとつでないのです。

 

だから、セッションで言葉や青写真が降りる時には、
いくつかのパターンで来るのです。
そして、あなたがどんな心で、どんな方法を取るかによって、
神様からが与えてくれる青写真が変わってくるのです。(思ったことが現実になる宇宙の法則があるから変わってきます)
つまり、選択する未来(起こってくる未来・引き寄せる未来)が変わってくるのです。

 

 

                            寧楽感恩

自愛のための土台作り、もう一つの落とし穴!

昨日からこのブログを準備し、仕上げましょうと始めようとしていた
今さっき、また母が
「お母さんが悪いねん・・・」とまた●●ておりました。
なぜ、お父さんが勝手に怒っている理由がお母さん?
なぜ、病気の総合商社になっているお母さんをまだ責めるの?
いつもいつもシンクロへのナイスなタイミングな母に感謝をしながら、
ということで、今日も書いていきます。

 

 

 

愛の種を植えると、愛の芽が出て、愛がどんどんと育つ。
でも、土壌ができていないと、いくら種を植えても愛が育つのは難しくなります。


前回まで、「我慢ポイントがわからない人へ」と
・自分が我慢していることがわからない
・自分は我慢していないと思い込んでいる
・自分の「感じ」という感覚がわからない
・頭の”姑”的考えが強すぎる
・我慢を我慢だと認識できない
そういう方のために、「我慢ポイント」とはこういう場合に出てきますよと
ご紹介をしてきました。


そして、「我慢ポイント」探しは、
自愛のための土台作りであり、
自愛を受け入れることのできる自分に戻るため、
自分だけでなく人からの”慈愛”を受け入れることのできる自分に戻るため、
愛不足と思われるあなたにまず知っていただきたいことです。

 


我慢が得意な人の心の動き構図は、


イライラ・怒り・始終つらいといった”負”の波動を発生している心の状態
            ↓ (どうしていつもそんな心の状態?)
     悲しみを伴った不平不満が生まれる
            ↓ (どうして不平不満を持つの?)
          我慢している
            ↓ (どうして我慢するの?)
    すねたり・ひがんだり・しなけば、などの被害者意識を持っているから

 

と、100%こんな心の動きが、頭の動きが行われています。
だから被害者意識を少しでも減らしていくためには、
このサイクルを止めるために、「我慢している」自分に”気づく”、そこからなのです。
だから、「我慢ポイント」探しが、本当のあなたを知る”自愛”でもあり、自分で取り組みやすい土台作りの方法としてお伝えしました。

上の場合の被害者は自分であり、
加害者は自分でない「他人」「出来事・状況」と自分以外です。
そう、自分以外なのです。


これがヒントということで、
自愛の土台を育たなくしているもうひとつの●●る「癖」を考えてみてください。

 


この心の癖があると、
スピリチュアル的エネルギーはどんどんと減っていきます。
体の不調も多くなります。
自分以外の何かからの被害者意識の底にある「我慢」よりも強い、自分を弱める「癖」でもあります。なぜなら自分は24時間自分を相手にしているからです。

 

 この●●るの上の心の動き構図的に書くと、
自分を●●る
 ↓(そんな自分をど思う?)
自分を罰する・悪いと罪悪感を覚える
 ↓(そんな自分はどうなるの?)
どうせ自分なんてと、すねて・否定して・・・・
 ↓(そうやっていくとどうなるの?)
自分が加害者で、自分が被害者にもなる


自分を●●て、
自分で自分を悪者扱いして、罪悪感をかぶせていじめて、
そして、「どうせ私なんて」「どうせダメだし」「自分が嫌い」などと
自分をすねさせて・否定させて・嫌いにさせて、
挙句の果てには、被害者も自分で加害者も自分と、
ひとり二役のエンドレスプレイをするわけです。


そろそろ●●がわかってきたのではないですか?


●●・・・・とは?

 

 

 


答えは、責め です。

 

 

自分で自分を責めた時点で、”自愛”の土台・前提が崩れてしまうのです。


この土台が崩れていると、
自分を認めたり
自分を褒めてあげたり、
感謝をしたり、
自分を幸せを感じさせてあげたり、などなど
いくら自分に”愛”を送り込んでも、吸収できずに終わってしまう。
愛の失調状態になるので、”自愛”が進まなくなります。

 


何かあれば「すみません」「私が悪いんです」とその場を取り繕うとしたり、
自分に非がないのに謝ることで相手の機嫌を損なわないようにしたり、
とにかく謝ることが人間関係をスムーズにする方法と考えていたり、
人のせいにするとはダメなことだと宇宙の法則や引き寄せの知識で覚えていたり、
と、こういう習慣がある人は要注意です★

 
私も過去そういうように思っていましたし、
引き寄せの知識や宇宙の法則を知ったり、真面目な方ほど
そんな風に思っておられる傾向にあるのもセッションを通じての質問でもわかります。

 
でも、これ一見なのです。
一見、すごく関係性をうまく作っていけそうなやり方なのですが、
あくまで一見なのです。
長い目で見ると、宇宙の愛の波動とは共調しないやり方です。
宇宙の流れに乗れずに、苦しくなっていくやり方です。

 

 

なぜなら、
先ほど書いたように、
他人や何か他の要因を加害者にして自分が被害者意識にはしていませんが、
自分で自分を責めて自分を加害者にして、更に被害者にもしているのです。
これって本当に「たちの悪い」自分いじめになっています。
(だから人からも責められたり・嫌がらせやたちの悪いことを受ける引き寄せも起こってきます><)


自分で自分を責めることで、
自分が加害者になり、被害者にもする。
これで、”自愛”をして愛の波動を受け入れましょうと言っても
どこに愛の入る余地があるのですか?ということになります。


自分で自分の愛を受け取る土台がない人は、
他者からの愛を受け取ることができないのも当然です。
どちらにせよ”愛”を受け取る土台ができていないからです。
受け取れないのですから、愛だけでなく、表面的な部分でしか感謝も受け取れません。

そういう人ほど、人からの愛を求めて「愛されたい」「与えて欲しい」が思いが強いです。
だから、益々「愛されない」「与えられない」という現実が来ます・・・・宇宙の法則でもあり、
そして、あなたの神様が”愛”を受け取るあなたに戻ってもらいたがっているからです。


関西弁でいうと
「なんでくれへんねん><」
「いくらあげても、あんたが受け取ってくれへんやん!」と
このやりとりを一生やっていても苦しいので、
神様としては早く”愛”の受け取れる土台ができてないことに”気づいて!”とずっとメッセージを送っているのです。

 


「責め」が自分が”愛”を受け取れなくしている原因だとわかれば、
さっそく「責め」を減らしていくのが善は急げというわけです。


具体的に生活の中で自分が自分を責めていることを
自分で自覚していくことが必要となってきます。

この「責め」の黒幕は、自分の頭の”姑”です。
つまり、魂の繋がった”本当のあなた”ではありません。
”本当のあなた”は魂の親と繋がった愛の魂を心いっぱいに秘めているのですから、責めません。くれるのは愛だけです。

あくまでこの”姑”とは、
この世で生まれて、後天的に自分の頭の中でこの世のしきたりや常識を詰め込んだ思い込み・刷り込まれたものです。
神様が視点にしておられる”愛”でなく、
死んであの世に持って帰れないお金や名誉や地位、仕事の出来高、成果結果などが重要と思わせるものも頭の中の”姑”です。

 


だから、”責めない自分”を作っていく上では、
ある意味本当のあなたは”姑”に嫌われていいし、嫌われた方がいいのです。
”本当のあなた”は、”姑”に愛されないでいい、
自分に愛されればいいのです★

 

生活の中の自分「責め」と、考え方の切り替え方を少し紹介すると、
・失敗してダメだと自分を責める
 →失敗がダメだとは”姑”が決めただけ。失敗をする自由があり、改善すればそれでOK!
・できないからと自分を責める
 →できないからダメな人だと決めるのは”姑”。できることもあるし、できるできないはただの条件、人によってそれ違うんだから、できない自分でも何も悪くもはずかしくもない。条件であなたの命の価値は決まりません!
・みんなと同じにように生きられないと責める
 →魂はそれぞれ違う ので生き方も適齢期も好みも全部違って当たり前。
・認められないといって責める
 →”姑”に認めれるために、ひいては誰かに認められるために生きているのではありません。自分で自分を認めていればいいのです! ”姑”に認められるということは、”本当の自分”から、ずれているということですから。つまり自分らしくない。
・すぐに自分のせいにして・自分が悪いと自分を責める
 →特に理由もないのに自分に罪をかぶせない!

 

 

こんな感じに「責め」ていることって、生活の中に沢山あると思うのです。
特に、できない・ダメ・自己否定・比較ダメージなどなど、こういう思考が働いた時は、
必ずと言っていいほど「責め」ています。これが引き寄せの本でもよく書いてある、頭の雑音でもあります。

 


この「責め」について、もうちょっとわかりやすく教えてくれないかなと神様に問いかけていましたところ、
「責め」を時間的に砕いて見ていくと、
この「責め」も大きく3つあると、アドバイスが降りてきました。

①【寿命まで全時間】人生まるごと・命そのもの
  わかりやすく言えば、自分の存在そのもの、命そのものの否定、今までの生きてきた時間の「責め」。
  「どうして生まれてしまったの!」
  「私なんて生きる価値ないわ!」
  「今までの人生ろくなことなかったわ!」
  「後悔ばかりの人生TT」
  「死んだ方がましだ」
  「生きている意味がない!」
  「死んでも生きていても同じTT」
  など、今まであなたが生きてきた時間そのもの、生きている命のそのもの
  人生と命を否定して責めるというパターンです。
  (自分に価値がないと思ってしまっている人は過去のブログで、あなたの命は無限の価値があると知ってみてください

あなたもすでに代表選手! - はひふへほっ。 笑う門には福来たる 、「無限の価値」「プライスレス」のキーワードでも出てくると思います。)


 私は、「死ぬ間際になって、後悔しながら死にたいですか?」と時々質問をすることがあります。あなたが死ぬまでの命の時間を死の間際になって、後悔したり、自分の人生を嘆くというのでは、あまりにも自分が悲し過ぎではありませんか!!
どれだけ自分が自分を責めて生きてきたかってことなんです。
最期の瞬間に、「やりたいことが出来なかった」と後悔をするのであれば、
やりたいことがやれない自分を責めて生きてきた、そういう思いが大いに秘められている可能性があります。
  
あなたの人生・命、これはあなたそのもの、あなたの存在全体を意味します。
あなたの存在全体に大きなバッテンを付けて、自分全体を否定してしまっては、
”愛”を受け取る価値がないと自分を否定しているところから始まってしまいますから、
”愛”を受け取るのは難しくなってしまうのです。すると、“自愛”も“慈愛”も遠くなります

 

あなたの命、人生を否定しているのに、”今”の自分を「認め」て”愛”を受け取るって、
そりゃ~誰だってできないと苦しむと思います。
あなたはあなたの魂の親が生みだした唯一無二の存在で、無限の価値がある最高傑作なんです!!!だから、あなたがあなた自身を「責め」る必要はそもそもないのです❤

今までの人生・時間、酸いも甘いもすべて精一杯だったのですから はなまる!!!
 
  
  
 
②【過去】過去のその瞬間の自分
その時を思い出すパターンですね。思い出して自分を「責め」る。
これ、”負”の波動を発生する考え方をする方の得意技とも言えます。
  自分でわざわざ今の出来事と過去の出来事をリンクさせて、さらに自分で「責め」て追い込む・・・
なぜか嫌なことがあると、過去とすぐに結びつける癖がある。 
うじうじ・ぐるぐるが得意な人も、過去にはまり込んで「責め続けて」、
「それでは、”今”どうするか?」と未来に心の切り替えができない癖ですね。
 
  「あの時、ああやってれば」
  「あの時、あんなこと言わなければ」
   
この②のパターンは、「たら・れば」がキーワードになるのでわかりやすいと思います。
過去の自分の選択した行動・言動のせいで、今の自分がこうなってしまった・・・・
というわかりやすい「責め」です。

今の自分を否定したい・認めたくない、もしくは否定している・認めていないから、出てくる「たら・れば」ですよね。
もし、今の自分の状態が幸せであったり、納得できていれば、後悔の念混じりの「たら・れば」は出てこないはずだからです。
  
  過去のその瞬間にそう選択した自分を「責め」を受け続ける自分、
  もうそんな自分から解放してあげませんか?
 

本当にあなたが被害意識をやめ・責めるのをやめ、”愛”を受け取れるようになった時、
あなたが”自愛”をできるようになった時、
その未来のあなたは、「あの時の自分はあれが精一杯だった」と過去の自分を愛おしく言えるように変化しますから。
  セッションでも、「あの時の自分があったから」「あの時が嘘みたい」「変化した自分がわかるんです、嬉しい」などの嬉しい報告をお聞きしています。みんな”愛”にもどれるんです。

 

必ずそんな未来はやってきます^^
まだやって来ないなら、まだまだそれは”愛”を受ける土台を作る伸びしろがたっぷりということです★焦らずに「責め」癖を取って行きましょう。

 


③【現在】今の自分
これは、わかりやすいですよね。
今、生きているこの瞬間にあなたがあなたを「責め」ているかどうか。
  
 「失敗した!」
 「できなかった!」
 「また食べてしまった!」
 「また無駄なものを買ってしまった!」
 「また余計なひと言を言ってしまった!」
 「電車に乗り遅れた!」
 「また▲▲さんに怒られた!嫌われた!」
 「■さんよりできない!」
 「■■さんみたいになれない!」
 「(容姿の)どこどこが嫌い!」
 「まだまだ足らない!」
 「私一度聞いただけでは、わからないんです・・・」(担保が欲しい気持は責めたくないから)
 「わからない・・・><」(どうどうとわからないと自分を責めないで質問すればいい)

 

と少しだけ書きましたけれども、自分が被害者意識になりやすい、
また、すぐにすねてしまう・ひねくれてしまう・諦める・逃げる・人を斜めに見る人は、「責め」癖があります。
 誰から「責められてそんな自分を「責め」たくないから、これ以上自分を責めたくないから逃げる・諦める・・・・
 このような「責め」癖がついてしまうと、いくら自分の命を輝かせると自分らしさを発揮したいと思っても、
発揮する前に、逃げる・諦めるのですからいつまでたっても咲く花も咲きません。

いつでもどこでも、自分が精一杯やった、その時の自分がベストだと思って出した答えと行動・言動は、人からどう思われても自分で認めて、自分から賞賛されていいのです!自分で自分を誇っていいのですから❤

 

 

また、このほかに「責め」にリンクする感情として
 ・恥
 ・落ち込む 
 があります。

 恥は、恥ずかしいという意味合いよりも、「恥」(生き恥の恥)なんですね。
恥と思うのは、できないあなたを恥とする「誰か」や「あなた」がいるために、
起こる感情です。だから、自分を「責め」ることがなければ、恥じることはないですから。
恥と思えば、自分を責めたなと自覚してください。

 

 落ち込むは、②の過去のその瞬間の自分を「責め」るに含まれます。
もう起こってしまったことに落ち込む。
今起こったことでも、もう過去になります。
自分が思っていたこと、期待していたようにならなかった時に人は落ち込みます。
落ち込むとね、”負”の波動を発生する考え方の得意な人は、すぐに自分を責め始めます。
 「どうしてああしてしまったの?」過去を後悔したり、
 「つらい」と感情のループにつかったままにするのが上手なので、
落ち込んだら責め、責めては落ち込みと、悪循環に自分で入ってしまいます。

 

 

このように①~③の時間軸による「責め」パターンがあることを覚えてもらって、
自分が今持っている思いや感情が、「責め」にあたるのか、
自分で自分に寄り添う、もう少しきつくいうと最初は「監視」するつもりで、
「責め」る自分が出てきた時には、大切な人が自分を責めている時に寄り添うように、
十二分に自分が責める理由を聞いてあげながら
「責めないでいいよ!精一杯やったんだから❤」
今の自分、過去の自分、自分の人生全体、生きている時間全体を認めてあげてください!

 

 


さてさて、今日のブログでは、まとめると、


不満になるほど我慢して、
その我慢のせいですねて被害者意識に陥って、
”愛”をはねのけ受け取り下手なあなた、
その原因は、
「他者(他の事由)」と他でもない「自分自身」。


「自分から」自分のせいでと他人のせいにしてはいけないと思っている人は、
自分を責めてしまいます。

とにかく、
人も自分も責めない!
人と自分のせいにしない!
できないとすぐに自分を責めない!
できないからダメな人と自分を勝手に罰しない!
自分で自分を罰して、すねて被害者意識にならない!

 


「責め」るには時間軸の三つのタイプがありますので、
自分の責め癖を一つずつ発見しながら、
責めをやめていってください★

そして、

落ち込むも責め、恥じるも責め、ちょっと要注意★

 

 

自分が自分を責めると、人からも責められるようになります。宇宙の法則ですから。
すると、人は被害者意識が強くなり、できない自分だからと責められる理由を探して自分を責めます。
「責め」を辞めよとの神様の合図なのだと知り、
この「責め」が「愛」に入れ替わると、あなたの人生はどうなると想像しますか?

「愛」でいっぱいになるに決まっているではないか!と声を大にして言いたいです。
今まで「責め」でいっぱいだった人ほど、「愛」でいっぱいになると思います^^

 


沢山の”愛”が入る自分に戻りましょう!

 

 

「責め」をやめると、
神様が「よく気がついたね^^」と
宇宙の愛の波動と同調が出来たことで
神業的に現実も何かしら変えてくれますから❤

 

 

                   寧楽感恩


P.S
それでも出来ない自分を、失敗した自分を責めてしまうあなたへ
そんな時には、「ドンマイ」という慰めよりも
「ナイストライ!」と、自分に経験を与える”自愛”ができたのですから自分褒めの一言を❤
責めないで、トライして経験する”自愛”ができた自分を愛いっぱいに抱きしめてあげてくださ❤❤

我慢ポイントがわからない人へ(4)続き 「しっかりしない・ちゃんとしない」でいるには?

大雨災害に大変な生活・思いをされている方を報道を通して拝見すると、心がとても痛みます。
雨は浄化浄化といいますが、やはり「過ぎる」ことには心を痛めるばかりです。
ふと頭に思い浮かんだそちらにお住まいのお客様にもご連絡を差し上げたのですが、
仕事上での不都合や親戚の方が浸水されたなど他人事とは思えない状況を伝え知りました。
私も中国にて浸水経験がありますが、正常生活が困難だったことを思い出しましたが、それ以上の水災。
被害にあわれた方々が、とにかく少しでも早く体と心が休め、さまざまな被害が少なきことを祈っております!

 

 


今回は、前回に予告していましたように、
我慢ポイントがわからない人へ(4)での
”「しっかり・ちゃんとしない」と言われても、どうするの???”
という質問に対して書いていきたいと思います。

 


さて、次のフレーズを聞いてどう思いますか?

 

 

 

あなたはお金持ちになるために生まれてきたのではありません。
あなたは豊さの中を生きていると実感するために生きているのです。


あなたは評価されるために生まれてきたのではありません。
あなたは自分らしさを満喫していると実感するために生きているのです。

 

 

 

 

心にどんな思いが湧いてきましたか?
今回は大きく2パターンに分けてみました。
今思ったあなたの思いがどちらに近いかを鑑みてください。

 

 

 


①「うそ!!そんな!!」派
引き寄せだとか、宇宙の法則だとかやってきたのに、
えっ、お金持ちになれないの?
えっ、評価されるようにならないの?評価を求めてはダメなの?
そんなのない~~~><
今までやってきたこと、願ってきたことって何?!
叶わないなんて~~~~><

 


②「そうだよね~」派
お金持ちになろうとしないで、豊かな心を持っていれば、お金も含めた豊かさを引き寄せるし^^
命を輝かして個性を満喫していると、どんどん楽しさ・嬉しさ・幸せも満喫できるように引き寄せるし^^
それって最高に”幸せ”ってことだよね~~★

 

 

 


自分がどちら派なのか、自分に聴いていただけましたか?
この2つには大きな差があります。

 


①パターン
このパターンは、過去の私もこっちでした。
信じてやってきた努力して必死でやってきたことが、崩れ落ちる・・・><
この世の中で価値をもてはやされる「お金(豊かさ)・名誉・地位・経歴・外見」を基準にしているパターン。
わかりやすく言うと、パワーゲームのルール(頭の中の”姑”的考え)を引きずって生きているパターン。
お金があれば、豊かな気持ちになって、幸せになれる。
できる自分になれば、評価される自分になって、幸せになれる。
お金があって、生活が豊かで、仕事で成功してると思われる自分が嬉しいパターン。
これすべて偽「幸せ」を”自愛という本当の幸せ”だと勘違いしているパターンです。


②パターン
「神様視点」のパターンです。
”自愛””慈愛”という”愛”視点です。
とにかく、”愛”という心が優先の視点です。
宇宙の波動=”愛”波動ですから、
宇宙の波動に逆らわず共調していくので、
宇宙の流れに逆ららず自分自身も流れに乗れる、
そんな神業を受けやすい(宇宙からの助けを受けやすいともいう)パターンです。
そんな”愛”の内には、豊かさも人から尊重されること(評価される)、大切にされること、などなど
あなたが望んでいることがちゃんと含まれている、
そんな”愛”だ!”愛”だ!の「神様視点」のパターンです。

 

 

①「”姑”視点」、反”自愛”のパターン
②「神様視点」、“自愛””慈愛”の”愛”のパターン

他人軸と自愛軸という考え方もあると思いますが、
それよりも「神様視点」で”愛”があるかないかがポイントなのです!

 


ここまで2種類の考え方を知ってもらったと思います。
その理解の上で、「しっかり・ちゃんとする」という心の状態を考えてみてください。

 

 

 


「しっかり・ちゃんと」は、しなければならないと思うくらいに、自分をつらくさせるくらいに追い込んでしまうことが多いです。
人と比べてちゃんとできてないから、人から見られてちゃんとしていないい自分と思われるのが嫌だからと、
人の目を気にして、楽しく・幸せになんていう”自愛”の気持ちを持てないくらいになっているはずです。
楽しく・幸せという”自愛”のいい塩梅のところを過ぎてしまって、反”自愛”に変化しているはずです。

 


そんな方に私が言うのは、


「しっかりしないでいいんです。
 手を抜いて、そのぶん心(愛)❤を込めてください! 

 


自分を追い込んで「もっとやらないと!」と「できる人にならないと!」という反”自愛”をやめる方法を取ればいいのですよね。いい塩梅のところに戻ればいいのです。


 
数字でいうとわかりやすく、仕事や家事、生きていること自体となんでもいいのですが、
今までが を50、50で、合計100だとすると、
手を30、そのぶん70、計100にして、
気合はいれずに、思いっきり心を込めて(愛を込めて)やってくださいとお話します。


「しっかり・ちゃんと」と思う人は、
あまりにもできるできないということ・結果・成果・スピードに心を奪われてしまうので
が90、10など、手ばかりに偏りやすくなります。
すると、これだけやっているのにとか、できないからとすねが多くなり、
また楽しくやっている人を見ると、うらめしく思ってまたすねたりと、
”負”の波動を発生する考え方がどんどんと溜まっていき、反”自愛”な世界に突入してしまいます。
反”自愛”がどんどん進んでいき、宇宙の波動と同調しなくなり、
宇宙から(神様から)の神業・サプライズが入らなくなり、自分の人生を嘆くスパイラルになります。
こういうタイプの人ほど、自分が頑張っているのに評価されないと不平不満がたまります。

 

 

時々、「手を抜いていいんですか?」と驚かれる方もありますが、
90、10でいる時は、頭がキンキンにもなり心の余裕もなく、周りも見えにくくなるし、
とにかくやらなければという気持ちが先走るので丁寧さがおろそかにもなるし、
いつもなんだかイライラ・がやがやと心の中が穏やかになることはありません。
それだから人の小さなミスも目くじらを立ててしまうことになったり、
足を引っ張る人間がいると思うとより不機嫌になったりもします。
仕事の出来具合で一喜一憂し、人の評価でももっと一喜一憂し、などなど
数えあげるときりがありませんが、これだけ”負”の思いを持って反”自愛”満載でいると
その人からもどんどん「不機嫌・ピリピリオーラ」が出ていますから、職場(家族)の雰囲気もダウンしています。
こんな風だと、心がどんどん固くなって、人のはずが「案山子」が仕事(家事)をしている状態になっているのです。心あらず・・・・

 


だから、
「案山子」ではなく、あなたは心を持つ「人」なのですから、
が25、75でもいいんです。

極端な話、
が1、99でもいいんです。
体調が悪い時などは、無理をして、どんどん辛くなるよりも、こちらの意識の方が、”自愛”できていますし、その”自愛”の波動が周りにも伝わって
ひいては”慈愛”にもなっています。

自分は人や家族のお世話になってばかりだと思って方、
そういう方もが1でいいのです。
その”手”は、行動として「ありがとう」という言葉を伝えること。
それも”手”なのです。

何かを具体的にすることが”手”、
ただ「感謝」を伝えるだけでも”手”なのです。
笑顔ひとつ作ることも”手”なのです。

具体的に大そうなこと、具体的に人に役立ったり助けること、
でなくてもいいんです。

あなたの存在は神様からすれば、宇宙のでたった一人の無限の価値のある存在なのです。
そんなあなたに訪れる誰からのお助けは、神様からの神業というか計画的配慮なのですから、
罪悪感なく、気兼ねなく、ありがたく頂戴していいのです。

 


というのは、できる質できる量にも考えられると思います。
手を抜くとなると、どちらかというと「量」を減らすということになるでしょう。
具体的に「量」を減らすという手の抜き方とすば、
人にお願いすることもできるでしょう、
今まで速さが勝負と思っていたとしたら2日でできることを3日にしてもらうこともできるでしょう、
料理ならば何点か作るのを減らすこともできるでしょう、
こんな風に、量の調節をして、今ある質をさげないまま「手を抜く」ことはできると思います。
その時できる量を減らして「手を抜く」ことは、自分をより長期的に輝かし、より長期的に人への”慈愛”ができるのです。


また、では「質は?」となると、無理して上げようと苦しむ必要はありません。
量を減らすなら「質」をあげなきゃ!と思う人は、「しっかり・ちゃんと」思考に自然となっている現れです。
今その時の自分が持っている技術・能力・知識、その「質」でいいということなのです。
(今の自分に出来ることしか神様はよこしませんし、”自愛”として楽しくやっていれば、自然と技術・能力・知識は上がるようになっています)




質はそのまま
量は減らす、
でも心(愛)はすご~~~~~く込める❤


自分が手を抜いたなと思うぶん、
心(愛)をすご~~~~~~く込める❤


手を抜くというのが、引っかかる方には、
「手をゆるめる」でも
「手加減をする」でも
「必死にならない」でも
「案山子にならない」でも
「自分のペースを守る」でも
なんでもいいですから、手が抜けるフレーズを考えてみてください。

 


本当に、いっぱいいっぱいの時、自分がキンキンの頭になっている時って、
質に期待はされているし、量は多いので時間との戦いになっており、
どうしてもやっつけ仕事になりがちになります。
やっつけ仕事をしていると、「もういい加減にしてよね!」って誰かにも”負”の波動出しまくってもいます。
自分を追い込みまくって自分で作ってしまった反”自愛”の渦の中にいては、
「心(愛)を込める!」なんてできないんですよ!
結局、できたかどうかだけが・やったかやってないかが基準になってしまう・・・・

 

自分が苦しんでいるのに、
「愛を込めましょう!」って言われても無理です、そんなの。


「案山子」でいるのに
人間の愛を込めましょう!と言われても、困ってしまいますもんね。

 


だから、
あなたが今まで”姑”的考えでやってきたなと思って、
”愛”のある「神様視点」を忘れていたなと思ったならば、
「今日から案山子や~~めた!」と少しずつやっていただけばと思います。

 

 

上に挙げたように、「手を抜いて心は入れる!」を実践してくださった方々は、
・仕事がうまくまわるようになった
・なぜか人が手伝ってくれるようになった
・職場の人から物をもらうようになった
・職場で昇進した
・お客様が増えた
・人間関係がスムーズになりだした
・仕事は減らしているのに、認めてもらえるようになった
・感謝されることが多くなった
・クレームの電話の率が下がった
・関わりたくないなと思う先方からの連絡が減っている
・出会いの質が変わった。愛のある人に出会えている
・行きたかった部署に異動になった
・手当としてお給料が増えるようになった
・愚痴を聞くことが少なくなった
・嫌だなと思っていた友人からの連絡が来なくなった
・体重が増えるのが止まった
・仕事量は減ったのに収入がアップした
などなど、いろんな変化が!、まさかというような神業!が起こっています


「心を入れる」という人への”慈愛”の前に、
「手を抜く」ということで”自愛”が出来ていたから、
宇宙の愛の波動と同調できるようになって、”愛”の循環が行われるようになった。

 


「しっかり・ちゃんと」のままでは、いつも”姑”に見張られた状態を自分で作っている、自分いじめの反”自愛”。


「ちゃんと」料理ができてなくても、お母さんがニコニコしている方がいいのです
「ちゃんと」算数ができなくても、お子さんには好きなことがある方がいいのです
「しっかり」会社から評価されなくても、無限の価値があっていいのです
「しっかり」とできない自分であっても、一人で機嫌よければいいのです

 


でも「手を抜くって・・・・・」と罪悪感を持ってしまうかもしれません。
罪悪感を感じてしまうのは、”姑”的考え(「お金(豊かさ)・名誉・地位・経歴・外見」という世間の価値観)に引きずられているからというのと

心を込められないから質を上げる振りして逃げてるのかもしれません。
心を込められないから、量で仕事をしている振りして逃げているのかもしれません。
心が込められるのは、”自愛”をある程度できてからの話なので・・・


その罪悪感、そもそも不用ですから。
そのぶん心を込める!
思う存分、心を込めちゃってください!!!


すると、今ある場所、今ある職場の居心地が悪くなることもあるでしょう。
今までの自分と同じような「ちゃんと・しっかり」という成果・評価主義の自分と引き合った人が集まった場所なので・・・・
(その集まりの中で、「実は“慈愛”のある人だなと新たな発見をする場合もあります)
そういう場所にいて自分が幸せだと思うならば、それでいい。
でも、”愛”に戻っていく者にとっては、「過去の自分の心の場所」となることの方が自然です。
それも自分のステップなのですから、しがらみにしがみ付く必要があるか考えてみてもいいですよ。

あなたが「手を抜く」をして、いろいろと言ってくる人は、
あなたと同じように「手を抜きたい」人なのです。
だから、あなたが「手を抜く」ことを理解できない人は、
今まで無理してやってたんだね~と理解してくれる心の余裕がない人だったり、
世間の成績・結果ばかりで人を判断する”姑”的考えにふりまわされている人だったり、と今大変な心の渦の中で耐えておらえる反”自愛”であり反”慈愛”のお勉強をしている方だと思って、
「自愛・慈愛が訪れますように❤」と祈って、同じ土俵に立たないで構いません。

 


しっかりしないでも(完璧でなくても・できなくても)、心を込めていればOK!それがジ愛❤と思っていれば、
しっかりしないでも(完璧でなくても・できなくても)、心を込めていればOK!それがジ愛❤ がわかっている人が集まります。


しっかりしないでも、心を込めていればOK!それがジ愛❤と思っていることで、
しっかりできなくても、愛をもらってOK!それがジ愛❤ と思えるようになると、愛と豊かさが流れ入ってきます。

 

 

 この世は”愛”波動で動いている。
だから、世の中で価値をもてはやされる「お金(豊かさ)・名誉・地位・経歴・外見」にふりまわされないでいきましょう!

このブログを今目にしておられるというのは、偶然ではなくシンクロ。
”慈愛”“自愛”、つまり”愛”に戻りましょうという神様からのお知らせが来ていているタイミングです。
もう①タイプの偽「幸せ」は十分に追いかけたからもう卒業!!!!!
あなたを幸せにするあなたに戻りましょう、”愛”に戻りましょうというターニングポイントに来たということです。

 

 

 自分のため
人のため
みんなのために
手は抜いて
愛を入れよう!   

 


「手を抜く」のが怖いなと思ったら、
とりあえず手を抜くを1ヶ月だけやると決めてやるでもいいのです。
勇気を持って、手を抜いていきましょう!
「しっかり・ちゃんとしない」方が、”愛”がフォーカスされて循環して、”愛”の恩恵がめぐってくるのですから。


私も「いい塩梅」に書道の作品作りと指導、宇宙の法則セッション、このブログも
その時その時、今ある技術を駆使して、いつも心は全開、100%の愛を込めて❤


              寧楽感恩

我慢ポイントがわからない人へ(4)

 

お待たせしました!
4回目の「我慢ポイント」記事になります。
4回目ということは、その間3か月ほどあったわけですが、
我慢していたポイントが見つかってはいますか?
記事を読んでもらって、実際に日常生活の中でやっていただけてこそですので、
ぼちぼちとやってみてくださいね^^無理は反”自愛ですから。

 

我慢ポイントってなんだ?
言葉的に平易にすると、自分が我慢しているツボです。
自分が我慢しているツボって、どこにあるの?ってことです。


それを自分に問うというのは、
”我慢”はどんな気持ちと共にやってくるか?と考えてみること。
我慢のツボを自覚するためには自分に向き合うことになるのです。
そういう自分と向き合う”自愛”をしながら、読んでみてください。
(去年あたりからずっと書いている一連の流れを見ていただくとヒントにもなると思います。)

我慢ポイントが現れる時は、
我慢だけがやっては来ません。
自分が先に何かを「思う・感じる」があって、我慢も一緒にやってきます。
だから、我慢を知らせるために我慢と共にやっていくる気持ちを追う方が我慢ポイントが見つけやすいわけです。


それは、ブログで書いてもいますが、我慢を知らせるために、我慢と共にやってくる気持ちとして、
我慢が現れる前には、不平不満があり、
不平不満が現れる前には、すね・ひねくれ がある。
すね・ひねくれ の前には、被害者意識がある。

被害者意識のままでは、どんなに愛をもらったとしても、
すねてるんですから、「そんなんいらんわ!」とすねる子供と同じ心になっているので、人からの”慈愛”はもちろんのこと、感謝の心なんか湧いてもきませんし、
自分で自愛をしようとしても、受け取らないようにしてしまう。
”自愛”も”慈愛”も受け取れない自分を自分で作ってしまっているんですね。
つまり、被害者意識から我慢まで連鎖する反”自愛”の心を放置しておくと、
宇宙の”愛”の波動と逆行することになり、益々状況や心が苦しくなりますので、
”愛”するために被害者意識から抜けた方がいいですよとブログでは過去にも書いてきました。

ざくっとまとめると、
”愛”を受け取れるようになるために、被害者意識をやめていきましょう!ということです。
もう少し砕いて書くと、
被害者意識 → すね・ひねくれ → 不平不満 → 我慢 
こんな一連の心の動きが起こっています。
だから、被害者意識の「になる”我慢”を見つけると、
被害者意識に連鎖するいろんな反”自愛”の心・感情が現れなくなりますので、
我慢ポイントを自分でわかっていきましょう!ということです。

”我慢”に至るまでには、上に書いたような
この反”自愛”の心・気持ちの流れがあるんです。
この反”自愛”の心・気持ちは”負”の波動を発生する考え方・捉え方ですから、
神業がなかなか入ってこないか、引き寄せが起こりににくく逆引き寄せばかり来る ってことがわかると思います。
だから、この反”自愛”の心・気持ちの流れを頭に入れておかれていると、”我慢”の種を見つけるため、
「不平不満を言っている!」と自覚したら
「なんかすねてる気がする!」と自覚したら
「被害者意識になっている!」と自覚したら
我慢をしている何かがあるという合図ですから、
我慢ポイント探しがしやすくなると思います。

 


最近、なぜ我慢ポイントについて書いているのかを、おさらいしてみました。
我慢ポイントのテーマばかり~~~と思われている方には、
我慢いっぱいで爆発しそうな方には、
楽しくない内容かも知れませんが、と~~~っても重要なことです★★★
”我慢”している自分の考え方・捉え方に気づくこと、
つまり反”自愛”(頭の中の”姑”)をしている自分の考え方・捉え方に気づくこと、
それが「気づき」であり、あなたがよりあなたらしく生きるために魂の親からの自分の宇宙の”愛”波動と同調できる重要ヒントです。



さて、今日の我慢ポイントを知るためのヒントはと言いますと、
今年元旦に私個人に神様に今年のテーマと言われた言葉と同じです。
ヒントは、昨年秋に33年ぶりにお会いした小学校の先生(母の仕事の関係で突然家に来られてびっくり!)から
妙に心に残った(これが神様からのメッセージ)言葉で、
「まさみちゃんは、いつも何でも●●を目指して、弟のたいちゃんはまったくその正反対で楽しい子でしたね。」の中の●●です。

「あら先生、そんな風に思っていらしたのね!」とびっくり、
「私はやっぱりそんなに小さい頃から周りからも●●と思われるほど頑張ってたんだね」とまたびっくり、
●●を目指していたから苦しかった自分を神様から指摘をされて、
「●●を目指さない!」を”自愛”としてやっていることに感慨深く思いました。

 


●●は、なんとなくわかりますよね。
そう 「完璧」です。
我慢ポイントがわからなくなる理由のヒントは、「完璧」が習慣になっている。
私もずっとそうだったように、同じような習慣になっている方も多いはず。


私のことでいうと、わが家の教育方針は
「(完璧を目指し)どんなことも一生懸命しなさい!」でした。
でも、両親共に教師だっだので、まあ家庭でも先生の監視にあっているようで、
両親は一生懸命を教え叩きこもうと一生懸命で、疲れる家族なわけです。
両親は、結果があがるほど、成績があがるほど、できるほど、
もっとできるもっとできると、要求が強くなっていき、
一生懸命することは、「夢中」でもなんでもなくって、我慢からの「忍耐」でした。
両親は完璧を目指さなければ気がすまないので、
学生時代、1点落ちるだけで、正座を2,3時間の説教は当たり前、「さぼった」とみなされビンタをくらうことも・・・
そのお蔭で、根性だけはとんでもなく付いてしまいました。
発熱や痛みが生じても両親には怒られましたので、「さぼった・なまけ」たと言われないように、体に心にムチもうっていました。
でも、一生懸命にやっても、完璧になんてできないんです><
(そんな私は、国体やインターハイも出場していたので体育で進学したと思われていたり、書道は書道で専門として大学院まで、そして2度の留学費用も自力で、語学も日本語以上に2か国語をビジネスで使えるレベルまで習得し、日本一と言って過言でない書道の先生に呼ばれて編集長や秘書な役目をしたりと、文武両道でなければならないという両親の教えを基に、とんでもない忍耐や根性でやっていたのです・・・・><  
人の5倍もやれば成績はついてきますので、体・心を犠牲にした反”自愛”で自分を酷使していました。だから、いろんなガタが30代で沢山出てきたわけです)


この「一生懸命」は、本当に落とし穴です。
「夢中」でやるのと
結果優先の「完璧」を目指して一生懸命に必死でやるのとでは、
自分の体や心、エネルギーに与える影響は全く違うのです。

「夢中」・・・我を忘れて、時間を忘れて楽しむので”自愛”
「一生懸命」・・・自分を犠牲にして、必死で完璧を目指さなければならない<have to>なので反”自愛”、私なんかは一生懸命にしていないと受ける体罰が怖かったということもありました

「夢中」「一生懸命」、”自愛”反”自愛”ですからね。
こんなつらい思いで反”自愛”の人生になると、「幸せ」から自分で遠ざかってしまうので、
私のような方もあるのではないかと、特に私の世代には多いのではないかと、
拙ブログを自分の経験を恥をさらしながら書いているわけです。


こんなふうな生活環境下で
「一生懸命」が普通になっていると、
我慢ポイントがわからなくなるのです。
だって、「一生懸命」「完璧」を求めることが普通になってくるのですから・・・
「適当」に「完璧」にやるという言葉は聞いたことはありませんから。


だからこそ、<have to>完璧を目指す「一生懸命」がちょっと苦しくなっておられる方に、是非是非伝えたい言葉です!私の神様が年始に、「もっとやれ!」と言われた言葉です。
ちょいと散漫がちにヒントを書いてきましたが、そろそろわかってこられたと思います。

 

 

 

 


そう、今日の我慢ポイントがわからない人へのアドバイスというと?

 

 

 

 


しっかりしない
ちゃんとしない

 

 

 

 


しっかりしないと、ダメ。
ちゃんとできないと、ダメ。
しっかりできないと、大変だよ。
ちゃんとできないと、困るよ。 
ちゃんとできれば、まだまだできるよ。
しっかりしても、それでは足りないから。
   ・
   ・
   ・
   ・
ダメだし・比較・否定・おどし・不足 などなど”負”の波動を発生する価値観のオンパレード。
いわば、反”自愛”している価値観のオンパレードです
生まれた時、赤ちゃんの時から、こんな”負”の考え方は誰も持っていないんです。
やはり誰かからや社会からの刷り込まれたことは言うまでもありません。
刷り込まれた反”自愛”の考え方にまみれてしまっているわけです。

その多くは
両親や先生、いろいろな人から
「しっかり・ちゃんと」と躾けのように教わってきたと思います。

しか~~~し!
これが大人の愛だというならば、こんな偽ラブは要りません><
これが「あたなのため」という愛ならば、こんな偽ラブは要りません><
だって、”自愛””慈愛”からのしっかりちゃんと」ではないのだから。


「しっかり・ちゃんと」ができないと、
「あなたは◯◯◯いう人(子)だから・・・」と色眼鏡で見られたこともあると思います。
相手の勝手な価値観で色眼鏡で見られたわけです。
周囲の都合や相手の都合に合わなければ
存在や能力の否定をされる、
出来ない人(子)に勝手に仕立てあげられる、家族・会社などの人間関係で一番困る問題です。
自分軸になっていれば、「何をゆうてんねん!!!勝手に言ってていいよ~」で終わるのですが、
我慢してまでも「しっかり・ちゃんと」を頑な守っていると、
「もっとしっかり、ちゃんとしなければ!」と何とかしなければというスパイラルに入っていきます。


このスパイラスに入ってしまうと、この苦しみを避けようとして、さらに困ったことに、
我慢してでも、嫌われたり、見捨てられたり、怒られるのが嫌で心を感じるのが習慣になり、
いつしかこういうこらえ癖が習慣となり、
慢性化してしまいます。体の不調が続いている方の慢性化とリンクしています。

いわば、「しっかり・ちゃんと」との言葉呪縛を自分にかけたまま・・・そんな状態。
だから、”自分が何のために生きているのか?幸せってどんな感じ?”と
人生の迷子、”自愛”の迷子になりたくなくてもなってしまうのです。
つらいことが、どうしてつらいのか、どうすればつらくなくなるか、全くわからない迷子状態。
この状態は、”自愛”してあなたがより幸せになるために訪れた神様からのラブチャンスなんです❤ ラブのあるチャンスなので、試練ではないんです><


口を酸っぱく指をペンにして書きますが、
自分でない誰かに、社会に
比較され、
できるできない
という目に見えるもので判断をされ、
否定され、ダメ出しをされ、けちょんけちょんにたたかれ、心が痛み、疲れ果てても
認めてほしい、理解してほしい、もっと愛されたいという思いをずっと持ち続けてやってきたのは、
「しっかり・ちゃんとすれば認められる、理解される、もっと愛される」と思い込んできたからです。
そこに幸せがあるかもと勘違いをしてきたから。
それ方向違い、勘違いなんです! 反”自愛”の方向は、幸せを遠くする方向なんです!


また、

”エネルギーがでないんです・・・・”
”体調が・・・・・・”
”すぐに疲れるんです・・・”
という方にも、「しっかりちゃんと」思考は大きく関わっています。
ご相談でも、こういう内容が多いのは確かです。
霊的エネルギーが充電されずに、カツカツな状態でやっているからなのですが。


しっかりちゃんと」すれば、そこに幸せがある(恋愛・パートナーに尽くしてしまうパターンも同じ)と思い込んで、努力すれば何とかなると思い込んで、
認められたい、理解してもらいたい、もっと愛されたいという思いを持ち続けている間は、
願いが叶うまでとかや、努力して結果が出るまでと思って、”熱(霊的エネルギー)”を維持しているわけですが、
自分を悪い意味で自分自身をエネルギー源として燃やしながら、いわば自分を消耗しながらの自前エネルギー(霊的エネルギー)なので、限界があるのです。
自分自身を燃やしてエネルギー源にして、宇宙からの循環しているエネルギーを受け取っていないから限界生じてきます。


そんな自前の霊的エネルギー”熱”ですから、
”熱”を燃やしすぎてしまったり(長期的にや、一時的に爆発的に)、
やってもやっても先が見えず自分を諦めるようになったり、
どうせこの世なんてと「今」を含めた自分の時間を捨てるような気持ちになったり、 など
こういった反”自愛”の気持ちにどどどどっと一旦傾いてしまうと、自前”熱”は枯れて、
自分に”熱”が入らなくなってしまうようになります。
エネルギー足りないと、元気がなくなる状態です。

”熱”があったのが”冷”になってしまい、
”冷”の慢性化は一旦進むとどんどん進んでしまいます。
自分の人生を生きているようで、ちっとも生きていない感覚にもなります。
(安心してください、”冷”化は、”自愛”することでストップでき、”熱”も入ってきますから^^)


「しっかり・ちゃんと」という価値観によって、
比較され、
できるできないで判断され、
あなたの能力的な個性も否定され、
すねて内に籠ってしまった・・・”熱”があったのに
自分が自分にすねてしまった・・・”熱”があったのに
だから”冷”が慢性化してしまったにすぎません。
それなのにまだ自分にムチを打って「しっかり・ちゃんと」と自分にやらせようとするから、
”自愛”が足りてませんよとお知らせのために、
またまた我慢を強いるようなつらい神様からラブチャンスが、エンドレスラブとして送られてくるのです❤

 


さあ、我慢をやめてすねて・被害者意識になって内に籠ってしまったあなたを解放してあげましょう
すると、あなたがあなたらしく、”冷”⇒”熱”になり、あなたが輝き出しますから★

 


本日のまとめとしては、


「しっかり・ちゃんとする」⇒ 反”自愛”⇒ 自分や人からも”愛”されない
この『”愛”されない』には、愛されない・認めてもらえない・評価されない・優しくされない・大切にされないなど
あなたが本当に求めているものの、逆ですよね。

 


だから、逆をすればいい。
「しっかり・ちゃんとしない」 ⇒ ”自愛” ⇒ 自分や人から”愛”される

 


しっかりしてはダメですよ!
ちゃんとしてはダメですよ!

 


ここまでも6100字と長くなってしまったので、
(このブログは4000字を超えると急に重たくなるようです)
今日はここまでにします。


次のブログまでに、「しっかり・ちゃんとしない」を考えて、取り入れてやってみてください。
すると、「しっかり・ちゃんとしないと言われても・・・・」という質問が出てくるかも知れません。
実際セッションではそういう質問を受けていますので、
次回は、私が神様に教えてもらった「しっかり・ちゃんと」に対する”自愛”思考をお伝えしたいと思います。

                                  寧楽感恩

我慢ポイントがわからない人へ(3)

毎年この時期になると花粉症になります。
(韓国に出張に出ると治ります、この地域は本当に花粉がすごい)
花粉症対策をしていて、「なんかおかしいな?」と思った時には、もう遅し。
ずっとぐずぐすと微熱風邪。
自分は無理していると思っていないのに・・・・
無理をしてしまっていることのお知らせを貰っております。ちょっと長いですが、今日もお付き合いください❤


さてさて、そろそろブログだなと、
我慢ポイントがわからないシリーズの第3回目の大きなテーマ(これは先月に決めていた)をどの視点で書こうかなと思っていたところ、
やはりまたやってきました、神様からのお知らせ。
は~~とため息が出てしまう母とのやり取り。
これを書けってことね~~~ということで、
今日もまずは、質問から行ってみます。


我慢ポイントがわからない方、
我慢してないと思っている方、
”自愛”できていると思っている方(→母もこのタイプ)に
まずは考えていただきたいと思います。


Q.私のちょっと知り合い(知人の紹介で知り合った方で、年賀状程度のおつきあい、1・2年に一度お会いできるか)に対して、「1週間もしたらもう山椒の実もダメになるから、好きって聞いて、ここ3年ほど毎年送っているからもう送ってあげなあかんと思うねんけど、送ったらいいかな?電話して聞いてあげる?」とたずねてきました。
   この言葉を聞いて、”腑に落ちない”と思ってしまいました。
   さて、なぜでしょう?
  ※うちの家には山椒の木があるので、この時期になると実の収穫ができます。
  ※相手の方は私がチャネリングやリーディングができるのをご存じなので、電話も善し悪しなのです。

 


答えに至る前のヒントです。
これが、今日”我慢ポイントがわからない理由”としてご紹介したい内容にもかぶります。

 


山椒の実の旬になり、私のちょっとした知り合いを思い出して、送ろうとしてくれる母の思いやりには、
当然感謝の気持ちを持っています★
その気持ちは重々にわかっていても、心が進まなくなる理由でもあります。


このQを聞いて、まずは
①何が”腑に落ちないの?”と思う
②同感、”腑に落ちない”と思う
大きく2つにわかれるのではないかと思います。


①を選ぶと、どうして”腑に落ちない”ことがあるの?と思うでしょう。
②を選んだ方は、それなりに理由が思い浮かんでおられると思います。

 

 

昔の私ならばです。
わが家で消費できない量の山椒なので、おすそ分けの心が生まれるのもわかります。
だから①にように、何の疑問も持たず、「それならよろしく」と頼んだと思います。
気を遣ってもらってありがとうと思って頼んだと思います。


が、腑に落ちなかった・・・・今の私は。
理由を探せば、いろいろあがると思います。
でも、”自愛”という視点から見ると、2つの点がひっかかりました。
1、「送ってあげないといけない」「電話して聞いてあげる?」
   「送りたい」というwantではなくって、「送らなければならない」と”しなければならない”になっている気持ち。
電話して聞くということは、本当に「したい」というのではないと思うのです。
本当に自分が「したい」と思ったら、勝手に送る、自分の心を勝手に送る。
相手がその後、その品をどうしようが、それも相手の心に任せてしまう。
時には、確認を取る方がいい場合もあるでしょう。
しかし、ここで言いたいのは、「しなければならない」と思っているということ の問題。


確認を取って、相手が「いらない」と言えば、「しなければならない」”仕事”が一つ減るという捉え方が問題です。

 

  沢山の山椒の実が余ることに対して、「勿体ないからなんとかしなければならない」と気持ちも合い混じっているのもわかります。
でも、「・・・・しなければならない」とやることはどうなのでしょう? しかも、しなくても、第三者に迷惑がかかることもありません。
「送りたい」と純粋に思えないまま、自分に「送らせる」という”仕事”を一つ増やす のはどうなんでしょう?

  母は毎日時間がない、しんどいと言っている人です。
だから、いくら相手によかれと思っても、自分から「しなければならない」と”仕事”をより増やしてしんどいではどうなの?と思うのです。
反”自愛”での「しなければならない」では、やはり自分がどんどん疲れて来てしまいますので、
反”自愛”からの思いやりは、やはり疲れると思うのです。

  更に悲しいことは、もしですよ、相手の本心として”要らない”と思っていたと知ることがあったなら、
「しなければならない」と思ってやったことだったので、「やってあげたのに・・・」という不満につながる可能性もあるのです。
でも、母のようなタイプ。「やってあげたのに・・・」と思うことも思ってはいけない・悪い・自分のせいなどと思うと、
「しなければならない」で1度目の反”自愛”、
「やってあげたと思ってはいけない」という2度目の反”自愛”で、
反”自愛”でがんじがらめに自分をしてします。そして、自分のエネルギーが失われていきます。
(母には、上に記したことを言いました。が、伝わったかどうか・・・)
  

2、「ここ3年毎年送っているから」
  ここに大いにひっかかってください^^ これが今日の我慢ポイントがわからない理由として説明したいものです。
  
  1.リンクしますが、「毎年送っているから、今年も送りたい!」というwant が心の起点なら何も問題がなく、”慈愛”です。
でも、今回言いたいのは、「毎年しているから、今年もしなければならない」という点です。

 

  母はずっと幼き頃よりやってきました。時代も今よりもっと先生という肩書が大きい時代だったと思います。
すると、お歳暮中元、入賞入選をしたらお礼金、などなど、貧乏学生をしていた頃から年を経るごとに負担も大きくなり、
お金の切れ目が・・・というような世界、毎年の時期になれば、慣例として「渡す」というのが普通という思考の習慣を持っています。
そういう母を見ているからこそ、出てきた心のひっかかりだと思います。
そういう母からもらった世界観で苦しんだからからこそ、今は言える”気づき”です。

 

 

  慣例としていると、その時期になれば「しなければならない」のです。
  慣例としていると、自分が望まなくても「しなければならない」のです。
  つまり、「これって幸せ?」と思うのです。

 

こういうように考え癖がある人ほど、「・・・・したのに」と自分の期待と違う方向にものごとが進むと思い始めます。

 

 

慣例ということでも、その時期になれば、「本当にお礼をしたい!!」と思って自分の懐が痛くない程度で無理なくする。
慣例ということでも、自分の心に合致して「本当にお礼をしたい!!」と思って自分の懐が痛くない程度で無理なくする。

 

こんな風に自分の心に寄り添い、自分の心と懐の豊かさサイズに応じたものを、真心でお渡しする。そういう”愛”の循環こそが、宇宙神理として適合するもので、双方が”豊か”になる循環です。

 

そう思えないならば、慣例であっても、無理にすることはないと私は思っています。
その慣例ができないと外されるような世界観を持っている人の集まりであれば、
自分とは合わないのですから、がんばったとしても時間の問題でしょう。さっさとその世界観を持っている人からは離れて、
”自愛”と”慈愛”の世界観を持っている人たちに囲まれる方が幸せだと思います。

 

  

そう、恒例・慣例・習慣になっているから・・・・これが我慢ポイントをわからなくしている理由です。

恒例・慣例・習慣になっているから・・・・「やらなければ」と思っていることさえも自覚しないようになっているのです。
恒例・慣例・習慣になっているから・・・・「みんながするから」と思っているから自分の心に寄り添えなくなっているのです。

 


言葉を変えると、
自分にとっての”普通”
これが我慢ポイントをわからなくしている理由です。

 

 

自分にとっての”普通”って何でしょう?

 

 

上の例に挙げたのは、時々起るようなタイプです。
わかりやすいというとわかりやすいですよね、どかんと心に引っかかってきますから。
でも、この”普通”は、毎日の中で起こっています。
何か起こった時だけ、トラブルが起こった時だけ、「私我慢しているのかな?」と疑問に持つのではないのです。

 


私の経験からでお話します。
霊的(スピリチュアル)エネルギーが切れてしまった時のお話です。
体力エネルギーや精神的エネルギーは、睡眠やちょっとした気分転換で充電できます。
けれども、霊的(スピリチュアル)エネルギーが切れてしまった時は、だるさがひどく、本当に自分が”空”になったような感じ、
その経験から、この”普通”の大切さと怖さに気がつきました。
”自愛”って何だとより自愛の方法を考えるきっかけにもなりました。


ある日突然、朝起きると、もう起き上がれないのです。
私は、まず朝起きると、歯を磨こうとするのですが、立てない・・・
そして私の頭(自分の中の”姑”)はもがくのです。
「歯を磨かないと、あかん!」と。
歯を磨かないと虫歯になるよ、と脅すんです。
歯を磨かないと臭いよ、と脅すんです。
アカン病にかかっている状態です。


でも、霊的エネルギーがゼロの私は、
この頭の中の”姑”がいろいろと言ってきて、脅してきて、
歯を磨こうとすればするほど、自分が疲弊していきました。
たかが歯を磨くことです。
それが、もうできなかったのです。
当然、服を着替える、そんな霊的エネルギーなんかもっとありませんでした。


「あかん、磨かないとあかんと思ってても、あかんわ」と
頭の”姑”が何を言ってきても、心と体が言っている「あかんわ」を大切にしました。

そして、
「歯を磨かないとあかん」
「服を着替えないとあかん」
「朝ごはんを食べないとあかん」 などなど
朝から「あかん」と思っていたことをすべて「やったらあかん」という『逆方向』に切り替えました。


霊的エネルギーがなくってもう寝ることしかできていない自分に、
心と体がSOSを出しているのだからと、
頭の中で『普通』になっていることをすべて、やめることにしました。
心の声の、「だってやりたくないもん!寝ていたいもん!」をしっかり受け取ったからです。


この頭の中で『普通』になっていることは、
世間体や常識、経験や知識という自分の中の”姑”の価値観から来てきます。
つまり、先ほど紹介した「毎年やっているから・・・」というものも含みます。

この『普通』が『普通』ではないことに、気が付けば、”自愛”がよりしやすくなります。

 


朝起きて、
「服着替えたい?」
「今日は何着たい?」
「今日は仕事に行ける?行きたい?」
「朝ごはん作れる?」と、
今まで朝『普通』にやっていたことを、逐一自分の心に聞くのです。


『普通』というようになったのは、習慣や慣例によって、
自分の頭が『普通』と思い込んでいるものなのです。
頭が思い込んでいるのですから、そこに”自分の心に寄り添う”はありません。
つまり、
自分の心をほっておいて、自動的に、やらせている状態です。


子どもに「今日は何を着たいかな?」と聞かずに、
「これ着ておきなさい」とやっているのと同じ感覚ですね。
それでは、子どもがすねてしまいます・・・・
これを自分にやっていると、自分がすねてしまいます・・・・

すると、
自分をすねさせたりという反”自愛”ですので、
自覚しない間にどんどんと自分の霊的エネルギーがなくなっていく><

 


どかんどかんとトラブルやハプニングが起こっている時は、
自覚があって、自分の気持ちを考えたりしやすい。

でも、この『普通』というのは、
自覚がないので、じわじわと霊的エネルギーを奪い取っていくので、
気づいた時には、「じゃじゃじゃ~~~ん」というくらいに、えらいことになっています。


この「じわじわ」型ほど怖いものはないのです。

 

 

 普通、やっているから

 

 

そのくらい大丈夫だから
(いつもやっているし)⇒でも、全然大丈夫違うから><

 


いつもやっていても
普通できていても
その日、その時、自分が「したくない」「嫌」と思っていることもあるのです。

 


これほどこわい「じわじわ」型の霊的エネルギー消耗法はありません。
じわじわって一番わかりにくいですからね。

 

 

じわじわを予防する方法としては、
”自愛”しかありません。

その中でも、自分に寄り添う”自愛”です。

 


普通やっているからとか、そのくらい大丈夫というのは、頭の中の”姑”の声。
そういう頭の声には黙ってもらって、


自分が自分の愛しいペッとやパートナーに話かけるように、
「したいの?」
「やりたくないの?」
「好き?」
「嫌い?」
と逐一聞いてあげてください。


「やりたくない」とか「嫌い」と言った時には、
無理強いせずに、一旦その自分を受けとめる。(頭の中の”姑”はだまらせる)
そして、「やらない」「嫌う」を選択する。

でも、「やる必要がある」時ってあると思うんです。
そこでも”自愛”です。
「やりたくないんだね。代わりの方法はあるかな?」
「やりたくないんだね。後でならできる?」
「やりたくないんだね。・・・・・」と自分に寄り添って聞いてあげて欲しいのです。
そうしているうちに、「やらないでも済むことになった」や
「後回しにしたら全然できるようになった」という”自愛”からの神業が起こりますから


みんな自分の『普通』の中で生きている。
自分の『普通』を疑うことで、本当の自分が顔を出してきます


                           寧楽感恩

 

 

追記;これもここ最近の母。
骨折をしていてお風呂に入りたくないのに、
入れ入れという父が言うので、断ると父がまた荒れるからと仕方なくお風呂へ。
案の定、またこけてしまって、違う場所をまた骨折。
みなさん、お知らせは身近にあるのです。心の声を守りましょう!
自分の心の声を守るために、あなたを見方するために頭(”姑”でなく”あったかおばあちゃん”)が存在しています。